湯之奥金山跡
ゆのおくきんざんあと
[現在地名]下部町湯之奥
静岡県との県境の天子山地西麓の毛無山中腹にある中山・茅小屋・内山の三金山を総称して湯之奥金山という。このうち規模の最も大きい中山金山は標高一四五〇―一六五〇メートル付近の山腹急斜面に、茅小屋金山は入ノ沢右岸の標高八〇〇―八五〇メートル付近に、内山金山は入ノ沢の上流で標高一二五〇―一三五〇メートル付近にそれぞれ立地する。湯之奥金山周辺には常葉金山・栃代金山・川尻金山などがあり、県境の尾根の反対側には富士金山(現静岡県富士宮市)がある。
湯之奥金山は戦国期から近世初頭にかけて採掘が盛んで、盛時には山中に鉱業従事者が多数集住し、中山村・茅小屋村・内山村と称する鉱山村を形成していた。しかし資源枯渇による金山の衰退に伴い元禄年間(一六八八―一七〇四)には閉山し、住民も山を下り三集落とも廃絶した(元禄四年「湯奥村六郎兵衛等訴状」門西正勝家文書ほか)。
〔中山金山〕
戦国期鉱山村を中山郷とも称した。永禄一一年(一五六八)一一月二七日の穴山信君過所(判物証文写)に「中山之郷」とみえ、武田氏一族穴山信君は中山郷への物資を自由に通過させるよう河内地方の諸役所(関所)に命じており、当金山は茅小屋・内山両金山とともに穴山氏の支配下にあった。元亀二年(一五七一)二月一三日の武田家印判状写(判物証文写)によれば、武田氏は深沢城(現静岡県御殿場市)攻めに功績をたてた「中山之金山衆拾人」に対して籾子一五〇俵を与えており、この頃中山金山には金山衆(鉱夫を抱えた金山経営者)が少なくとも一〇人以上存在していた。その後穴山氏が天正二年(一五七四)には富士金山をも支配下においたことから(同年一月一六日「穴山信君諸役免許判物」竹川文書)、鉱脈を同じくする両金山のかかわりが拡大したと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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