江戸府内および近郊に置かれた諸大名の屋敷。当初は外様大名の妻子在府にはじまり幕府も屋敷地を適宜賜与していたが,1635年(寛永12)参勤交代制の確立以来,諸大名の江戸藩邸の設置が一般化し計画的な配置が行われるようになった。とくに明暦の大火(1657)後,屋敷を上・中・下に分け,上屋敷は原則として西丸下,丸の内,外桜田,愛宕下に,中屋敷は江戸城外郭の内縁に沿う範囲に,下屋敷は近郊に与えられた。これら幕府からの拝領屋敷のほかに,百姓地を買収した抱屋敷のある場合もあった。上屋敷には,藩主の対面の間や政務のための諸室が並ぶ表向きの殿舎と,藩主の私生活の場としての奥向きの殿舎を中心に,台所補給部門・作事関係の殿舎,江戸詰定府の家臣の長屋などがあった。中屋敷は控えの居館あるいは隠居した藩主や世子の邸宅として,一般に上屋敷の規模を縮小して設けられた。下屋敷は別荘あるいは緊急時の避難所として広大な林泉庭園をもち,また物資の搬入貯蔵を考慮して水運の便のよい所に蔵屋敷として設けられたものもある。
江戸屋敷には藩主の妻子のほかに幕府や諸藩との応接にあたる家臣が常住しており,江戸家老(留守居)を頂点として国元の藩の機構を小型にした職制があった。そして参勤時には国元から藩主とともに江戸勤番の家臣が随従して来ていた。例えば彦根藩井伊家の場合,18世紀中ごろの史料によれば桜田上屋敷1万9685坪,赤坂中屋敷1万4175坪,千駄谷別邸17万4795坪,八丁堀蔵屋敷7277坪があり,1695年(元禄8)の史料によれば定府家臣1458人,勤番家臣1764人であった。大藩の場合にはなお多くの家臣団を擁し,広大かつ多数の屋敷をもっていた。《御府内備考》によれば,天明(1781-89)のころには大名上屋敷265ヵ所,中・下屋敷466ヵ所あり,旗本屋敷を含めれば江戸の武家地は江戸全域の7割近くに及んでいた。これらの大名屋敷は,国元はもとより江戸府内外そして全国に膨大な物資と労働力の需要を生み出しており,それにこたえるための諸商・諸職の町人を多数吸収して,人口100万を超える大都市江戸の骨格を形成することとなった。また諸藩の江戸藩邸の維持経営に関する支出は,個々の藩財政の過半を占めてその逼迫(ひつぱく)をもたらすことともなった。なお,例えば築地鉄砲洲にあった豊前中津藩の中屋敷において,同藩医前野良沢が同志とともに《解体新書》の翻訳を進め1774年(安永3)に刊行したこと,また1858年(安政5)に同じ中屋敷内に福沢諭吉が蘭学塾を開いたことなどに見られるような,諸藩の江戸屋敷が果たした文化史的役割も見落とすことができない。幕末・維新期には荒廃したものもあったが,1870年(明治3)大名の藩邸と私邸を各1ヵ所に限るとされたほか,上地を命ぜられて新政府の役所や用地になったものや,新宿御苑(信濃内藤家下屋敷),小石川後楽園(水戸徳川家上屋敷),本郷東京大学(金沢前田家上屋敷)など学校,公園,公共施設などに利用されて現在に至るものが多い。
執筆者:松崎 欣一
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参勤交代によって江戸に参勤する大名に与えられた屋敷。初めは標準とか基準といったものはなく、幕府も屋敷地の下付(かふ)を申請した大名に対して任意に屋敷地を与えた。ところが、1635年(寛永12)の改訂「武家諸法度(ぶけしょはっと)」において、参勤交代が制度化し、諸大名の江戸屋敷の設置が一般化すると、計画的な屋敷割りが必要となり、しだいに屋敷地の再配置が行われるようになった。幕府は政治機構の整備に対応して、江戸城を完成する一方、外郭(そとくるわ)の西の丸下は老中・若年寄(わかどしより)などの官邸街に、神田橋門内から道三堀(どうさんぼり)のあたり竜(たつ)ノ口(くち)にかけては、大老・老中などの屋敷や伝奏(てんそう)屋敷のような官庁街にしたため、丸ノ内、霞(かすみ)ヶ関、永田町一帯が大名の屋敷街となった。
[藤野 保]
1657年(明暦3)の江戸大火を契機に、幕府は江戸の都市計画をたて、江戸城内にあった御三家(ごさんけ)(尾張(おわり)、紀伊、水戸)をはじめ、幕府の重臣の屋敷を城外に移すとともに、大名屋敷を上(かみ)屋敷、中(なか)屋敷、下(しも)屋敷の三つに分け、上屋敷は西の丸下、丸ノ内や外桜田に集めておいて、登城や勤番に便利なようにし、中屋敷は外堀の内縁に沿った範囲に配置し、下屋敷は新しく江戸近郊(四谷(よつや)、駒込(こまごめ)、下谷(したや)、本所(ほんじょ)など)に与えた。上屋敷は居屋敷ともいい、大名とその妻子が住んだ。中屋敷はのち大名世嗣(せいし)の邸宅となり、下屋敷は別荘としての役割を果たしたが、大名によっては数か所もっている者もあった。
[藤野 保]
大名屋敷には、大名の妻子のほかに、幕府や諸大名の応接にあたる家臣が常住した。一般にその長を留守居(るすい)または江戸家老といい、藩の職制上重要な位置を占めた。しかも、参勤中になると、大名とともに国元から江戸勤番の家臣が住み、これに女中、中間(ちゅうげん)、小者(こもの)を加えると、大名屋敷の人数は多数に上った。毛利(もうり)氏の大名屋敷には、留守居のほかに、藩主の参勤に随行し、絶えずその左右にあって政務を行う重職に当役(とうやく)があり、その下に裏判(うらはん)役(享保(きょうほう)年間廃止)、用談役、手元役(てもとやく)、右筆(ゆうひつ)役、用所役、矢倉頭人(やぐらとうにん)、公儀人が置かれ、これを国元の国相府(こくしょうふ)に対して行相府(ぎょうしょうふ)とよんだ。これだけの多数の家臣団が江戸という大都会で消費生活を営んだため、大名屋敷の出費は巨額となり、大名行列に要する費用と相まって、大名財政の窮乏をきたす主因となった。大名屋敷でのやりくりは、諸大名の経済生活のなかで重要な課題の一つとなった。
[藤野 保]
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近世の江戸における大名の邸宅。藩庁の所在地でもあり,江戸藩邸ともいう。本来的には参勤交代と大名妻子江戸居住の強制によって制度化された,幕府に対する一種の証人屋敷である。各大名は複数の屋敷をもつのが普通で,上屋敷・中屋敷・下屋敷・蔵屋敷などの区別があった。上屋敷は藩主の居宅,中屋敷は上屋敷が被災した場合の予備邸,下屋敷は荷揚げ場や倉庫の敷地,遊興のための広大な庭園などとして用いられた。これらの屋敷には藩主やその家族のほかに多数の藩士が住んだ。居住する藩士には江戸に常住する定府(常府)の者と,藩主の参勤に随行して1~2年で帰国する者があり,総数は多い藩で5000人にも及んだ。
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