湯山町(読み)ゆのやまちよう

日本歴史地名大系 「湯山町」の解説

湯山町
ゆのやまちよう

[現在地名]北区有馬町ありまちよう

唐櫃からと村の東に位置し、六甲ろつこう山地東部北麓に近い山間に湧出する有馬温泉を中心とした在郷町で、有馬川の谷間に立地する。江戸時代前期の郷帳類には単に「湯山」とみえ、中期頃より「湯山町」「湯ノ山町」と称するようになる(延宝二年差上一札「清凉院必覧」温泉寺蔵、元禄郷帳など)。「釈日本紀」に引く「摂津国風土記」逸文に「有馬の郡。又塩之原山あり。此の山の近くに塩の湯あり」とある塩之原しおのはら山の地。古来湯治湯として有名で、湯山は有馬温泉の別称でもあり、早い例として「明月記」元久二年(一二〇五)閏七月八日条の「午時着湯山宿」がある。山間部にあるため木地業も盛んで、南北朝―室町時代には京都東寺の修造に湯山番匠の活躍が知られ(康暦三年二月二一日「造営方算用状」東寺百合文書など)、応永二〇年(一四一三)七月一〇日の湯山番匠作事料足算用状(同文書)によると、東寺の修造に従事した湯山番匠は五月・七月で延べ二五二人であった。温泉は鎌倉時代頃から九条家が支配していた(正応六年三月一七日「九条家文庫文書目録」九条家文書)。しかし文正元年(一四六六)頃には有馬弥次郎(直祐)が湯山領主となっており(「蔭涼軒日録」同年二月一七日条)、応仁・文明の乱の最末期である文明九年(一四七七)六月、東軍方の細川政元の家臣薬師寺元長の弟長忠が摂津国山道やまじ(現東灘区)に打入り、大内政弘方と合戦の末、大内方を退け、湯山近辺より六、七里は細川政元方の支配下に入った(「大乗院寺社雑事記」同月六日条)。京・大坂方面から有馬へは生瀬なまぜ船坂ふなさか(現西宮市)経由で入るのが一般的であったが、兵庫津からの行路も利用された(同書文明一九年二月二〇日条など)。湯山には二ヵ所に関所が設置されていたらしく、永正三年(一五〇六)九月一〇日、石峯しやくぶ寺僧らの通行を保証した赤松氏奉行衆連署過所が「湯山両関」などの役所に出されている(「微考録」石峯寺文書)奈良興福寺大乗だいじよう院尋尊は永正二年の有馬入湯の際、湯山関で人別三文・輿荷一六文の関銭を払っている(「大乗院寺社雑事記」同年四月六日条)。享禄二年(一五二九)五月二六日の秀清・忠重連署地子宛行状(善福寺文書)に「湯山村西役所上屋敷」のことがみえる。戦国時代には三田・播磨三木に近いこともあり、温泉背後にある落葉おちば山の有馬城(湯山城)をめぐる攻防戦があるなど、当地もしだいに騒然としてくる。元亀元年(一五七〇)六月二四日には池田城(現大阪府池田市)城主池田勝正を放逐した中川清秀・荒木村重ら家臣団二〇人が、湯山年寄中に連署の書状を送り、疎意にはしないことを伝えている(「池田一族等連署書状」中之坊文書)


湯山町
ゆのやまち

[現在地名]三田市三田町

ほん町の東、丹波への街道沿いの両側に町屋が並ぶ町人町。安政二年(一八五五)模写の寛文(一六六一―七三)初期の古図(児玉家蔵)に湯山町とみえる。宝永(一七〇四―一一)頃の三田絵図(勝本家蔵)では南に折れ京口きようぐちに続く道沿いも湯山町と記される。寛政五年(一七九三)の三田古地図(九鬼家蔵)では岩井屋平右衛門の店舗がみえる。岩井屋は三田藩札の札元で十人両替商の一人であった(九鬼家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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