湯浅一郎(読み)ゆあさ いちろう

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「湯浅一郎」の解説

湯浅一郎 ゆあさ-いちろう

1869*-1931 明治-昭和時代前期の洋画家
明治元年12月18日生まれ。湯浅治郎長男山本芳翠(ほうすい),のち黒田清輝(せいき)らに師事。白馬会会員。明治38年渡欧し,スペインでベラスケスの作品の模写専念。帰国後,大正3年二科会の創立に参画した。昭和6年2月23日死去。64歳。上野(こうずけ)(群馬県)出身東京美術学校(現東京芸大)卒。作品に「漁夫晩帰」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の湯浅一郎の言及

【印象主義】より

…この新風は,96年,東京美術学校に西洋画科が設けられて黒田がその主任となり,またそれまでの明治美術会に対して黒田を中心とする白馬会が結成されるに及んで大きな力となり,従来の旧派,脂(やに)派に対して,新派,紫派と呼ばれて,その後の日本洋画の中心的傾向となった。この傾向は,黒田の弟子の岡田三郎助,和田英作(1874‐1959),湯浅一郎(1868‐1931),中沢弘光(1874‐1964),藤島武二らに受け継がれ,青木繁も,一時印象派風の海浜風景を描いた。明治末年になると,南薫造(みなみくんぞう)(1883‐1950),有島生馬,山下新太郎(1881‐1966)らの新帰朝者たちによってさらに刺激が与えられ,明るい色彩,大きな筆触を特色とする印象派風の外光表現は,日本洋画の確固とした一つの流れとなった。…

【明治・大正時代美術】より

…また明治美術会を脱し,フランスの明るく自由な画家社会を理想とする新しい絵画団体白馬会を結成,主宰する。黒田は美術学校と白馬会に拠って,藤島,岡田をはじめ,和田英作(1874‐1959),湯浅一郎(1868‐1931),白滝幾之助(1873‐1959),長原孝太郎(止水。1864‐1930),中沢弘光(1874‐1964),北蓮蔵(きたれんぞう)(1876‐1949),小林万吾(1870‐1947)ら,明治後期の洋画壇を築いた多くの新人を育てた。…

※「湯浅一郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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