17世紀スペイン絵画の巨匠。セビーリャに生まれ、マドリードで没した。父はポルトガル系の貴族で、ベラスケスは母の姓。生地で、のちに義父となる後期マニエリスムの画家で『絵画論』の著者パチェーコの工房に学び、1617年、職業画家となった。23年、義父同道の二度目のマドリード訪問で、同郷の宰相オリバレス伯公爵の助力もあって、一躍フェリペ4世(在位1621~65)の首席宮廷画家に登庸された。彼はまた、温和で誠実な性格ゆえに王の強い信頼を得て、宮廷役人としても重用された。セビーリャ時代の作風は、カラバッジョ風の明暗法と自然主義で、強固なボリュームの木彫のような人物像と、光や色彩のコントラスト、物の質の追求などを特徴とし、厨房画(ボデゴン)(『卵を料理する老婆と少年』『セビーリャの水売り』ほか)や肖像画(『修道女ヘロニマ・デ・ラ・フエンテ』ほか)、さらに宗教画(『東方三賢者の礼拝』ほか)を描き、日常的で卑近な主題に卓越した技法を発揮した。
この傾向は、マドリード初期の傑作でセビーリャの農夫たちを主人公とした『バッカスの勝利(酔っぱらいたち)』(1629)まで続くが、ベネチア派とフランドル派を中心とする膨大な王家コレクションとの接触、外交官としてスペインを訪れたルーベンスとの親交、その直後の第1回イタリア旅行(1629~31)を通じ、色彩は明るさと透明度を増し、筆致も軽妙さを加えていった。ローマのメディチ家別荘の庭を描いた2枚の風景画を第1回旅行の際の作とする説があるが、それらはコローさえ想起させる。
第2回イタリア旅行(1649~51)までの17年余は、ベラスケスのもっとも多産な時代であった。『ブレダの開城(槍(やり))』『カルロス4世騎馬像』『皇太子バルタサール・カルロス騎馬像』をはじめ、王族の狩猟服姿の肖像や、宮廷で養われていた小人や道化をヒューマニスティックに描いた肖像など、数多くの傑作を描いた。これらの作品において、セビーリャ時代の固い造形は、光と空気を感じさせる透明な色彩のタッチによって溶解され、対象は視覚的な真実を増していった。
ベラスケスは寡作家だが、作品が門外不出だったために、自分の作品に取り巻かれながら一作一作を新たな実験の場とすることができた。こうした技法上の革新は、第2回イタリア旅行とそれに続く晩年に完成した。ローマで描いたさまざまな赤の階調による『教皇インノケンティウス10世』は、ヨーロッパ肖像画の最高傑作の1枚である。さらに、帰国後に描いた傑作群、一連の『マルガリータ王女』、絵画の神学大全といわれる集団肖像画の傑作『ラス・メニーナス(宮廷の侍女たち)』、神話と現実が混然一体となった『ラス・イランデーラス(織女たち)』は、ベネチア派に始まった空気遠近法の完成、つまり、われわれの目が空気の厚さと光の量によって対象の形と色をさまざまに見るように、三次元空間とその中に存在する対象をカンバス上に描く技法の完成を、ひいては、印象派を先駆する色彩分割描法の完成を物語っている。
[神吉敬三]
『神吉敬三解説『世界美術全集15 ベラスケス』(1976・集英社)』▽『M・セリュラス著、雪山行二・山梨俊夫訳『ベラスケス』(1980・美術出版社)』
17世紀スペイン最大の画家。セビリャに生まれる。父はポルトガル系の貴族で,ベラスケスは母方の姓。11歳で,性格の激しいエレラ(父)に入門したが長続きせず,翌年セビリャの代表的な文化人で後期マニエリスムの画家F.パチェーコの工房に弟子入りした。1617年職業画家として独立,翌年には師の婿となった。23年,義父同道の2度目のマドリード訪問で,同郷の宰相オリバレス伯公爵の助力もあり,一躍首席宮廷画家に任命された。それ以後は,ベラスケスが懇望して実現した2度のイタリア旅行(1629-31,1649-51)と同じく2度の国内公務出張を例外として,王宮内で静かに暮らし,作品もほとんどが門外不出という,巨匠としては変則的な生涯を送った。一方,国王フェリペ4世の愛顧をえた彼は宮廷役人として出世し続け,スペイン最高の貴族集団サンチアゴ・デ・ロス・カバエロスにも加えられたが,宮廷内配室長としての激務が災いして,60年マリア・テレジア王女をフランス王ルイ14世に渡す重大儀式に奉仕した後に急死した。
ベラスケス絵画の出発点は,当時のスペイン画家の例にもれず,カラバッジョ風の明暗法と自然主義であった。セビリャ時代の《セビリャの水売り》《三博士の参拝》《修道女ヘロニマ・デ・ラ・フエンテ》やマドリード時代初期の《バッカスの勝利(酔っぱらいたち)》は,彼が,カラバッジョ風の厨房画(ボデゴンbodegón)や肖像画ではすでに完成の域に達する一方,宗教や神話の主題では,目に見えないものは描かず,現実世界に対応する場面を求めてそれを写実的に描くという,視覚的な真実に忠実な画家であったことを示している。宮廷画家となり,ベネチア派とフランドル絵画を中心とする膨大な王家コレクションに接した後の彼の画面は明るさと柔らかさを増し,外交官としてスペインに赴いた巨匠P.P.ルーベンスとの親交,その直後の第1回イタリア旅行を通じ,より自然な対象把握,つまり,光を含んだ空気を通しての視覚的真実をキャンバスに定着する方向に突き進んでいった。第2回イタリア旅行までの17年余は,ベラスケスの最も多産な時期であり,新離宮ブエン・レティーロBuen Retiroの〈諸王国の間〉のための《ブレダ開城》や国王と皇太子バルタサール・カルロス騎馬像,狩猟場パルドの休憩塔に制作された王族の狩猟服姿の肖像や,当時の宮廷に養われていた小人や道化を描いたヒューマニスティックな肖像など,数多くの傑作を残している。この間,ベラスケスの色彩は知的な度合を増し,そうした色を駆使して光の強弱と空気の層の厚みを正確に表現する軽快なタッチは,2度目のイタリア旅行を通じて完成の域に達する。さまざまな赤のニュアンスによって描かれた《教皇インノケンティウス10世》は,ヨーロッパ肖像画の最高傑作の一枚であり,メディチ家別荘の庭を描いた2枚の風景画は,コローを想起させる。晩年の傑作,集団肖像画の《女官たち(ラス・メニナス)》や神話画の《織女たち(ラス・イランデラス)》,さらに一連のマルガリータ王女像は,ベネチア派に始まった空気遠近法の完成,ひいては,印象派を先駆する色彩分割描法(ディビジョニスム)の完成を物語っている。ベラスケスは,巨匠らしくない寡作家であった。宮廷役人としての仕事が,画家ベラスケスを圧迫したのは事実だが,門外不出の自作に取り巻かれた変則的な生活が,数少ない一作一作を新たな実験の場としていくことを可能とした。
執筆者:神吉 敬三
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1599~1660
スペインの代表的画家。セビリャの生まれ。マドリードに出て1623年宮廷画家となる。2度イタリアに学び,ヴェネツィア派の影響を受ける。光線の表現に独特の工夫を示し,「女官たち(ラス・メニナス)」などの優れた肖像画,「織女たち」などの神話画,さらに2枚の風景画を残した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…他面,プロテスタント国オランダでは,P.クラースの《頭蓋骨のある静物》(1630)に見られるように,卓上の時計,煙るランプ,頭蓋骨などによる〈死を記憶せよ〉の教訓,J.M.モレナールの《婦人の世界》の,召使に頭をとかさせる行為,頭蓋骨,シャボン玉などによる〈虚栄(ウァニタスvanitas)〉の戒めなど,中世にシリーズで描かれた罪源のテーマがいまや教訓画のための独立した主題となる。このほか,スペインのベラスケスの《織女たち》のように,壁にかけられた画中画的存在のタピスリーによって,技術に対する絵画芸術の勝利という主題の寓意性を暗喩する手法も愛好された。18世紀以後,アレゴリー志向は一般に沈滞するが,フランスでは革命期,帝政期に特有の寓意(ダビッドなど)が生まれる。…
…しかしこれは,新興国オランダの市民社会において初めて可能であったことと思われる。すなわち,ほぼ同時期のスペインの宮廷画家ベラスケスは《宮女たち》(1656)を,制服姿で作画中の自身を立たせた〈アトリエ図〉として描き,またカトリック圏ネーデルラントの画家ルーベンスやファン・デイクはいずれも貴族としての顕示的な姿において自画像を描き,レンブラントに見る自己とのひたむきな対決の姿勢は見られない。その一方,18世紀後半以降市民社会が確立し,職人組合や宮廷からもしだいに独立した芸術家は,自己の特殊性を強調する形で自画像を描き,それはときにはボヘミアン的または自虐的な姿をさえ示すようになる。…
…17世紀にはさらに静止的肖似性を超えた生けるがごとき肖像の追求が進み,一瞬の微妙な表情が画布に再現され,メディアの限界を克服して彫刻にまで表される。16世紀をしのぐ現実に対する関心は,オランダでは一般市民の簡素な肖像画と市民団体の集団肖像画を発達させ,対極の政治体制をとるスペインでも国王と小人を同じ冷静さで見つめたベラスケスの肖像画を生んだ。しかし,しだいに強まりやがて17世紀後半フランス・アカデミーによって明文化される古典主義的芸術観においては,肖像は現実との密接な結びつきゆえに,宗教画や物語画より格の低いものとされた。…
…それ以前は,諸キリスト教王国やイスラム王国の首都がその時々の文化の中心をなしていた。17世紀のベラスケス,スルバラン,ムリーリョといった巨匠たちを生んだのも,マドリードではなく,イスラム支配時代から重要な都市として繁栄し,後に新大陸との交易を一手に掌握したセビリャであったのである。
[古さゆえの新しさ]
イスラムと対立・併存した8世紀間,スペインのキリスト教はファナティックで好戦的なものに変質した。…
…このことは,ルーベンス,カラッチ,ピエトロ・ダ・コルトナ,プッサンなどが〈新ベネチア派〉とも呼ばれているように,16世紀前半のベネチア派,とくにティツィアーノの芸術からもっとも深い影響を受けていたことによって証明される。レンブラント,ベラスケスもまたベネチア派と深い関係をもつ。彼らは,ベネチア派から,直接的で,感覚的な自然主義を摂取し,知的,象徴的なマニエリスムを止揚した。…
※「ベラスケス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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