瀬田済・勢多渡(読み)せたのわたり・せたのわたし

日本歴史地名大系 「瀬田済・勢多渡」の解説

瀬田済・勢多渡
せたのわたり・せたのわたし

瀬田川河口、勢多橋のかかる粟津あわづ瀬田橋本せたはしもとを結ぶ渡し。近江大津宮時代以前は一時的な架橋があったとしても本格的な永久橋の架橋はなく、船を利用しての渡河が一般的であったとみられる。それを伝えるのが「日本書紀」神功皇后摂政元年三月条にみえる「瀬田の済」にかかわる所伝である。「新羅征討」から戻り、筑紫で応神天皇を産んだ神功皇后はわが子とともに大和に帰還しようとするが、それを察知した応神天皇の異母兄坂王・忍熊王が反乱を起こし、両軍の戦いが各地で展開する。そのクライマックス、戦に敗れた忍熊王が逃れて自ら水死したのが瀬田済であった。

<資料は省略されています>

これらの歌謡は瀬田川の鵜飼をめぐる民謡で、瀬田の済付近の漁労生活を彷彿とさせるが、勢多橋の影はみえない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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