熊取庄(読み)くまとりのしよう

日本歴史地名大系 「熊取庄」の解説

熊取庄
くまとりのしよう

見出みで川と佐野さの川の中・上流域を古来熊取と称し、「日本後紀」延暦二三年(八〇四)一〇月一四日条に、桓武天皇が紀伊国行幸の帰途「熊取野」で猟をしたことが記される。「住吉大社神代記」には熊取の地名は神功皇后が羽白熊鷲を討取ったことにちなむとある。

熊取庄は天福二年(一二三四)六月二五日の官宣旨(九条家文書)みえるのが早い。この官宣旨は和泉国管内日根郡日根野ひねの鶴原つるはら(現泉佐野市)荒野に四至示を定め、前関白九条道家家の一円不輸の家領とし、国衙官物・勅院事以下国役を停止させたもので、その四至のうち北は甲斐田かいだ(貝田)川を限るとし、さらに「除熊取庄・元興寺并故若狭守実信領之外、於自余者、不可除古作也」と注記する。甲斐田川以南でも熊取庄分は除外されたわけで、すでに熊取庄が成立していたことがわかるが庄園領主は不明。元弘三年(一三三三)一月、紀伊国の有力武士団湯浅党に属していたと思われる木本孫三郎は、護良親王令旨を奉じ、和泉国松尾まつお(現和泉市)衆徒らとともに大和国宇陀うだ波津坂はつさか(現奈良県宇陀郡大宇陀町)の合戦で、鎌倉幕府軍の大炊八郎を討取るなどの戦功をあげた。師守記紙背文書によると建武元年(一三三四)八月一〇日、後醍醐天皇綸旨によって木本宗元は軍功の賞として熊取庄地頭職を得た。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報