熊田村(読み)くまだむら

日本歴史地名大系 「熊田村」の解説

熊田村
くまだむら

[現在地名]各務原市蘇原熊田町そはらくまだちよう蘇原三柿野町そはらみかきのちよう蘇原月丘町そはらつきおかちよう蘇原希望町そはらきぼうちよう蘇原興亜町そはらこうあちよう蘇原瑞雲町そはらずいうんちよう蘇原菊園町そはらきくぞのちよう蘇原旭町そはらあさひまち蘇原新生町そはらしんせいちよう蘇原昭栄町そはらしようえいちよう蘇原和合町そはらわごうちよう蘇原東栄町そはらとうえいちよう蘇原中央町そはらちゆうおうちよう各務西町かかみにしまち川崎町かわさきちようなど

各務原台地の北端さかい川左岸に位置し、西流する同川は当村の北より北流する。各務かかみ郡に属し、北は古市場ふるいちば村、東は東島ひがしじま村、南は野口のぐち村。水利に乏しく、井堰料を支払って周辺各村から落される水を利用したという。天正一七年(一五八九)一〇月二八日の野口村野帳(安積文書)に熊田、慶長六年(一六〇一)の彦坂元正等連署知行目録(菅沼文書)に「五拾弐石三斗七升 熊田村内」とみえる。慶長郷帳では高二二三石余。


熊田村
くまだむら

[現在地名]南那須町熊田

川を挟んで中井上なかいのうえ村の対岸西方に位置し、南は月次つきなみ村。古代の那須郡熊田くまた(和名抄)の遺称地。永禄年間(一五五八―七〇)と推定される年未詳一二月二四日の那須資胤書状(奈良文書)に熊田とあり、那須氏の勢力下に置かれている。天正一三年(一五八五)薄葉うすばはら合戦の戦功として、熊田村のうちで永楽五〇〇疋の地が興野弥左衛門尉に与えられた(同年三月二六日「那須資晴充行状」平沼伊兵衛氏所蔵文書)。江戸時代を通じて烏山藩領。慶安郷帳では田高六八三石余・畑高三五〇石余。天保一四年(一八四三)の烏山藩領郷村高帳(国会図書館蔵)では熊田村(合高九五七石余)のほかに新熊田村(旧高旧領取調帳では熊田村上郷)が載り、高二三三石余、ほかに新田六石余。


熊田村
くまたむら

[現在地名]中島町熊田

忽那くつな(現中島)西岸に位置し、宇和間うわま村の東に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)風早郡の項に「熊田村 日損所、林山有」とみえ、村高一一六石四斗七升七合、うち田八八石九斗一升四合、畑二七石五斗六升三合とある。

「伊予国風早郡地誌」に「往古ハ粟井郷松吉荘ニ属セシ所、後チ何ツノ頃トナク郷荘名自ラ廃ス」とある。江戸時代は松山藩に属した。安永五年(一七七六)の「懐中万手鑑」によれば、免相(免率)四ツ六分(四割六分)ただし安永六年分、水主は定水主一二軒、改水主六人、本田一七町九反一畝、本畑一四町七反四畝、林八ヵ所、池二ヵ所、家数三四、人口二〇八、上納苫二五二帖とある。


熊田村
くまだむら

[現在地名]鯖江市熊田町

日野川の西岸に位置し、西は二町掛にちようがけ村・下氏家しもうずえ村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では丹生北郡中に村名がみえ、高三九五・九三石。正保郷帳によると田方三四七石・畠方四八石余。初め福井藩領、貞享三年(一六八六)幕府領、元禄一〇年(一六九七)高森藩領、のち幕府領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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