日本大百科全書(ニッポニカ) 「烏山藩」の意味・わかりやすい解説
烏山藩
からすやまはん
下野(しもつけ)国(栃木県)烏山に居所を置いた譜代(ふだい)藩(前期は外様(とざま)藩)。1590年(天正18)豊臣(とよとみ)秀吉の小田原攻めに際し、烏山城主であった那須資晴(なすすけはる)は参陣を怠ったため改易された。そのあとに一時、織田信雄(のぶかつ)が配流されていたが、翌年には武蔵忍(むさしおし)(埼玉県)から成田氏長(うじなが)が2万石で入封し当藩を興した。関ヶ原の戦い後加封され3万7000石となったが、その後、継嗣(けいし)をめぐる内紛から減封され、1622年(元和8)には泰之(やすゆき)の急死とともに改易された。成田氏のあとは1623年に松下重綱(しげつな)、27年(寛永4)に堀親良(ちかよし)が入封、35年には全領検地が実施された。堀氏は親昌(ちかまさ)のとき、72年(寛文12)信濃(しなの)(長野県)飯田(いいだ)へ転封となり、同年三河(愛知県)中島から譜代の板倉重矩(しげのり)が5万石で入封、81年(天和1)には武蔵岩槻(いわつき)(埼玉県)へ転封した。かわって那須郡において1万2000石を領有していた那須資弥(すけみつ)が2万石で入封した。那須氏は家督継承の問題で1687年(貞享4)に改易され、あとへ永井直敬(なおひろ)が入封、1702年(元禄15)に上総(かずさ)(千葉県)大多喜(おおたき)から稲垣重富(しげとみ)が入封し、1725年(享保10)に志摩(三重県)鳥羽(とば)に転封するまで在封した。稲垣氏のあと、近江(おうみ)国(滋賀県)から若年寄の大久保常春(つねはる)が2万石で入封し、その後老中となり相模(さがみ)(神奈川県)に1万石を加増されて3万石となり、以後、忠胤(ただたね)から忠順(ただとし)まで8代、約150年間在封して明治維新を迎えた。烏山県、宇都宮県を経て、1873年(明治6)栃木県に編入された。
[阿部 昭]