片倉景綱(読み)かたくら・かげつな

朝日日本歴史人物事典 「片倉景綱」の解説

片倉景綱

没年:元和1.10.14(1615.12.4)
生年弘治2(1556)
戦国末・江戸前期の伊達家臣。八幡宮神主片倉景重の次男,母は本沢真直の娘。出羽置賜郡下長井宮村(山形県長井市宮)生まれ。小十郎,備中と称す。米沢城主伊達輝宗の従小姓から天正3(1575)年嗣君梵天丸(政宗)の傅となって以降,常に政宗に近侍し,政宗の軍略にはいつも伊達城実とこの景綱が関与し,天下の名陪臣と称さる。摺上原などの諸合戦に功があり,18年には豊臣秀吉の小田原陣に政宗を説いて斬死覚悟で共に参陣。秀吉朝鮮出兵にも政宗に従軍。初め大森城から亘理城へ,慶長7(1602)年に白石城1万3000石を拝領。墓は宮崎県白石市の片倉家廟所にある。<参考文献>小林清治『伊達政宗』

(伊藤清郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「片倉景綱」の意味・わかりやすい解説

片倉景綱
かたくらかげつな

[生]弘治3(1557).出羽,下長井
[没]元和1(1615).10.14. 陸奥,白石
安土桃山時代の武将伊達政宗重臣通称小十郎,備中守。天正 13 (1585) 年,二本松城在番本宮窪田,摺上原の諸戦に従軍して戦功があった。同 18年,政宗を説いて小田原攻め中の豊臣秀吉に謁見させ,大崎葛西の乱にも活躍するなどその後の伊達氏発展の基礎を築いた。慶長7 (1602) 年,陸奥白石城主。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「片倉景綱」の解説

片倉景綱 かたくら-かげつな

1557-1615 織豊-江戸時代前期の武将。
弘治(こうじ)3年生まれ。伊達政宗に重用され,二本松城在番,大森城主となる。豊臣秀吉の小田原攻めには政宗を説いて出陣させ,天正(てんしょう)19年(1591)亘理(わたり)城へうつる。慶長7年白石城主となった。元和(げんな)元年10月14日死去。59歳。出羽(でわ)置賜(おきたま)郡(山形県)出身。通称は小十郎,のち備中。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の片倉景綱の言及

【片倉小十郎】より

…仙台藩伊達氏の重臣。小十郎は世襲名だが景綱(1557‐1615)が著名で,豊臣秀吉の奥州仕置に際し伊達政宗の小田原参陣を推進,近世大名としての伊達氏再生を決定づけた。独立大名化の誘いを固辞,一国一城の例外的措置である白石(しろいし)城にあって1万3000石を領した。先祖は信濃国伊那郡片倉村に住し,大崎氏に従い奥州に下ったと伝える。伊達氏一家格で,以降しばしば奉行職などの重職に任じた。【難波 信雄】…

※「片倉景綱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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