王直(読み)オウチョク

デジタル大辞泉 「王直」の意味・読み・例文・類語

おう‐ちょく〔ワウ‐〕【王直】

[?~1557]中国、代の倭寇わこう首領しょう県(安徽省)の人。密貿易の取り締まりを避けて、平戸五島を本拠に倭寇を率い明の沿岸を襲う海賊となったが、勧誘により帰国して殺された。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「王直」の意味・読み・例文・類語

おう‐ちょくワウ‥【王直】

  1. ( 「汪直」とも書く ) 中国、明代の密貿易業者で、倭寇の大首領。安徽省の人。初め密貿易業者として日本シャムタイ)などを相手に活躍したが、明の取締りが厳しくなると日本の平戸・五島を拠点とし、倭寇を率いて中国沿岸を掠奪した。一五五七年没。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「王直」の意味・わかりやすい解説

王直
おうちょく
(?―1559)

中国、明(みん)代の海商で倭寇(わこう)の頭目。安徽(あんき)省歙(きゅう)県の出身。本名は鋥(てい)、号は五峰明朝の海禁政策下に、彼は同郷の徐惟学(じょいがく)と国禁を犯して海外に密航した。同郷の先輩許棟(きょとう)らの配下に、1545年6月、日本貢使僧寿光らの帰国に随行して日本に来航し、博多(はかた)の海商倭助才門(わのすけざいもん)らを浙江(せっこう)省の双嶼(そうしょ)港に誘い、中国人、ポルトガル人、南洋人らと国際的密貿易を行った。1548年浙江巡撫(じゅんぶ)朱紈(しゅがん)(1492―1549)の海上粛正で双嶼港は壊滅し、その難を逃れた王直は生き残った部衆と船団を収容して、やがて海上の巨頭にのし上がった。彼は本拠を日本の平戸、五島に置き、舟山列島の烈港などを密貿易の前進基地とし、自らを徽王(きおう)と号し、36島の倭人を指揮して、その勢力は海上に鳴り響いた。1550年代の嘉靖(かせい)大倭寇期にはその最大の頭目とされた。浙直総督胡宗憲(こそうけん)の「互市(ごし)公許」の口実にのせられて1557年10月その軍門に降伏し、2年後の12月処刑された。

[佐久間重男]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「王直」の意味・わかりやすい解説

王直 (おうちょく)
Wáng Zhí
生没年:?-1559

中国,明の密貿易業者,倭寇(わこう)の頭目として有名。汪直ともかかれる。安徽省歙県(しようけん)の人。五峰とも呼ばれた。はじめ塩商を営んだが,失敗すると仲間の葉宗満(しようそうまん)らと海船を造り,禁制品の硫黄生糸などをもって日本,呂宋(ルソン),安南,タイ,マラッカ方面と交易し,巨富を築いた。明の海禁政策が強化されると,彼は五島,平戸を本拠として日中の密貿易業者らを率い中国沿海を略奪した。いわゆる倭寇である。のち彼は胡宗憲の策略にはまり殺された。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「王直」の意味・わかりやすい解説

王直
おうちょく
Wang Zhi; Wang Chih

[生]?
[没]嘉靖38 (1559).12.
中国,明の海寇の首領,密貿易業者。徽州歙(しょう)県(安徽省)の出身。号は五峰。任侠で知略があり,仲間の徐惟学,葉宗満らと海船をつくり,海禁を犯して海上貿易に進出し,南海諸国と交易して巨富を築いた。次いで嘉靖24(1545)年日本の五島を根拠に日中密貿易の仲買として重きをなし浄海王と自称した。同 26年浙江巡撫朱紈の海禁強化と取り締まりが厳しくなり,逃れて五島,平戸に拠り徽王と号して倭寇を指揮し,連年中国の沿海地を荒し回った。これに苦しんだ明朝は,征倭総督胡宗憲の謀略で同 36年王直を誘い出すことに成功。王直は捕えられ処刑された。

王直
おうちょく
Wang Zhi; Wang Chih

[生]洪武12(1379)
[没]天順6(1462)
中国,明代の学者,政治家。泰和 (江西省) の人。字は行倹。号は抑菴。諡は文端。永楽2 (1404) 年の進士翰林院の侍読学士などの官にあること 20年余,故事有職に通じ,朝廷の重要文書は多くその手に成り,当時王英 (江西省金谿の人,学者) と並んで西王,東王と称された。また正統8 (48) 年には吏部尚書に進み,在任 14年の長さに及び,名臣の誉れが高かった。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「王直」の解説

王直
おうちょく

?~1559.12.-

後期倭寇(わこう)の首領。名は鋥。五峰と号する。中国安徽(あんき)省の出身。塩商だったが失敗して密貿易に転じた。1540年海禁政策のゆるみに乗じて広東へいき,禁制品の密貿易を行って巨富をたくわえた。「鉄炮記」によると,43年(天文12)ポルトガル人をのせて種子島に漂着,鉄砲を伝えたのも王直らしい。その後日本の五島を根拠地とし,平戸に豪奢な巨宅を営んだ。部下2000余人を擁し,36島の逸民を指揮し,徽王とよばれたという。53年中国での拠点である浙江省瀝港(れきこう)を追放されたのち,嘉靖(かせい)の大倭寇とよばれる海賊活動をおこし,数百隻の船団で中国沿岸を襲撃したが,57年総督胡宗憲(こそうけん)の勧めに応じて投降。2年後斬首された。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「王直」の解説

王直 おう-ちょく

?-1559 明(みん)(中国)の密貿易者。
天文(てんぶん)9年日本に来航。五島を本拠地に密貿易をおこなう。のち倭寇(わこう)の頭目となり,中国沿岸で略奪をくりかえしたが,明の浙江総督胡宗憲の策略にかかり,帰国後の嘉靖38年12月処刑された。安徽省(あんきしょう)出身。号は五峰。汪直ともかく。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

旺文社日本史事典 三訂版 「王直」の解説

王直
おうちょく

?〜1557
室町後期,明の私貿易業者・海賊
初め日中間の私貿易によって巨富を得たが,取締りが強化されると,五島・平戸を根拠地として中国沿海を略奪する倭寇の頭目となった。明朝はこれに苦慮し,謀略をもって帰国させ,謀殺した。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の王直の言及

【嘉靖の大倭寇】より

…密貿易者群の根拠地は,浙江の双嶼(そうしよ)(ポルトガル人はリャンポーといった)と瀝港(列港)(れつこう)であるが,この地が明の官憲の攻撃をうけて掃討されると,密貿易者たちは海寇集団に一転した。首領には王直や徐海らがいた。彼らの行動は1551年(嘉靖30)以後はげしくなり,中国沿海の人民をまきこみ,各地を荒らしまわって猛威をふるった。…

【歳遣船】より

…内容は対馬島主の歳遣船25隻はみとめるが,50年以前の名義の受図書人と受職人の通交はさしとめるというものであった。55年(弘治1∥明宗10)日本の五島を根拠地としていた明人王直らの海寇集団が朝鮮の南岸で行動した乙卯達梁倭変が起こり,宗氏はこの機をとらえて海賊の取締りと情報を提供することによって57年(弘治3∥明宗12)の丁巳(ていし)約条で歳遣船数を30隻に増加することに成功した。その後も宗氏はつねに歳遣船の増加を朝鮮側に求めつづけたが受け入れられなかった。…

【戚継光】より

…1552年(嘉靖31)以後のいわゆる後期倭寇の大侵攻に当たり,総兵官胡宗憲のもとにあって,その鎮定に努力した。57年には倭寇の大頭目王直を捕らえたのをはじめ,63年の平海衛の戦でも倭寇の主力を撃滅し,兪大猷とともに偉功をたてた。67年(隆慶1)海禁令が解かれ,倭寇が下火になると,北辺防衛にうつされ,総兵官として薊州,永平,山海関等においてアルタン・ハーン,ついでトモン・ハーンらのモンゴル軍の侵攻を撃退し,北辺の安全を保持した。…

※「王直」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android