中国、明(みん)代の海商で倭寇(わこう)の頭目。安徽(あんき)省歙(きゅう)県の出身。本名は鋥(てい)、号は五峰。明朝の海禁政策下に、彼は同郷の徐惟学(じょいがく)と国禁を犯して海外に密航した。同郷の先輩許棟(きょとう)らの配下に、1545年6月、日本貢使僧寿光らの帰国に随行して日本に来航し、博多(はかた)の海商倭助才門(わのすけざいもん)らを浙江(せっこう)省の双嶼(そうしょ)港に誘い、中国人、ポルトガル人、南洋人らと国際的密貿易を行った。1548年浙江巡撫(じゅんぶ)朱紈(しゅがん)(1492―1549)の海上粛正で双嶼港は壊滅し、その難を逃れた王直は生き残った部衆と船団を収容して、やがて海上の巨頭にのし上がった。彼は本拠を日本の平戸、五島に置き、舟山列島の烈港などを密貿易の前進基地とし、自らを徽王(きおう)と号し、36島の倭人を指揮して、その勢力は海上に鳴り響いた。1550年代の嘉靖(かせい)大倭寇期にはその最大の頭目とされた。浙直総督胡宗憲(こそうけん)の「互市(ごし)公許」の口実にのせられて1557年10月その軍門に降伏し、2年後の12月処刑された。
[佐久間重男]
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?~1559.12.-
後期倭寇(わこう)の首領。名は鋥。五峰と号する。中国安徽(あんき)省の出身。塩商だったが失敗して密貿易に転じた。1540年海禁政策のゆるみに乗じて広東へいき,禁制品の密貿易を行って巨富をたくわえた。「鉄炮記」によると,43年(天文12)ポルトガル人をのせて種子島に漂着,鉄砲を伝えたのも王直らしい。その後日本の五島を根拠地とし,平戸に豪奢な巨宅を営んだ。部下2000余人を擁し,36島の逸民を指揮し,徽王とよばれたという。53年中国での拠点である浙江省瀝港(れきこう)を追放されたのち,嘉靖(かせい)の大倭寇とよばれる海賊活動をおこし,数百隻の船団で中国沿岸を襲撃したが,57年総督胡宗憲(こそうけん)の勧めに応じて投降。2年後斬首された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…密貿易者群の根拠地は,浙江の双嶼(そうしよ)(ポルトガル人はリャンポーといった)と瀝港(列港)(れつこう)であるが,この地が明の官憲の攻撃をうけて掃討されると,密貿易者たちは海寇集団に一転した。首領には王直や徐海らがいた。彼らの行動は1551年(嘉靖30)以後はげしくなり,中国沿海の人民をまきこみ,各地を荒らしまわって猛威をふるった。…
…内容は対馬島主の歳遣船25隻はみとめるが,50年以前の名義の受図書人と受職人の通交はさしとめるというものであった。55年(弘治1∥明宗10)日本の五島を根拠地としていた明人王直らの海寇集団が朝鮮の南岸で行動した乙卯達梁倭変が起こり,宗氏はこの機をとらえて海賊の取締りと情報を提供することによって57年(弘治3∥明宗12)の丁巳(ていし)約条で歳遣船数を30隻に増加することに成功した。その後も宗氏はつねに歳遣船の増加を朝鮮側に求めつづけたが受け入れられなかった。…
…1552年(嘉靖31)以後のいわゆる後期倭寇の大侵攻に当たり,総兵官胡宗憲のもとにあって,その鎮定に努力した。57年には倭寇の大頭目王直を捕らえたのをはじめ,63年の平海衛の戦でも倭寇の主力を撃滅し,兪大猷とともに偉功をたてた。67年(隆慶1)海禁令が解かれ,倭寇が下火になると,北辺防衛にうつされ,総兵官として薊州,永平,山海関等においてアルタン・ハーン,ついでトモン・ハーンらのモンゴル軍の侵攻を撃退し,北辺の安全を保持した。…
※「王直」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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