牧野城(読み)まきのじょう

日本の城がわかる事典 「牧野城」の解説

まきのじょう【牧野城】

愛知県豊川市にあった中世の単郭式の平城(ひらじろ)。豊川市指定文化財。東三河の牧野氏が居城とした城の一つである。四国の田口氏の一族といわれる牧野成富が、この地に移り住んで、土着豪族となり、応永年間(1394~1428年)に築城したとされる。成富とその子・成時(古白入道)が2代にわたって居城とした。成富・成時父子は一色城(長山一色城、のちの牛窪城・牛久保城、豊川市)の一色時家の被官となっていた。応仁の乱末期の1477年(文明9)、同じ時家の被官だった波多野時政(全慶)は、主君の時家を殺害して一色城を横領した。牧野城主の牧野成時は1493年(明応2)、一色城の波多野時政を攻め、灰野原の戦いで時政を討ち取って、一色城に入城し、牛窪城と改名して居城を移した。成時はこれをきっかけに、東三河に勢力を伸ばし、土豪から国人領主としての地位を築いていったといわれる。その後、成時は一帯の国人領主と同様、東三河に勢力を伸ばしてきた駿河の今川氏に属した。今川家の当主・氏親は1505年(永正2)、対立していた西三河の松平清康徳川家康祖父)の押さえとして、成時らに今橋城(のちの吉田城、豊橋市)の築城を命じる。同城築城後、成時は初代城主として今橋城に居城を移した。牧野城は、今橋城築城にともなって廃城になったと推定されている。現在、かつての城域は農地整備の対象になったため、ごく一部の土塁跡や堀跡などを除いて、かつての遺構は残っていない。1993年(平成5)、豊川市教育委員会は城域の発掘調査を行っている。その結果、牧野城は南北約102m、東西約72~84mの規模の城であったことや、土塁やいくつかの堀を備えた単郭の掻揚城であったことが改めて確認された。JR飯田線豊川駅の西方約1km。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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