牛久保城(読み)うしくぼじょう

日本の城がわかる事典 「牛久保城」の解説

うしくぼじょう【牛久保城】

愛知県豊川市にあった平城(ひらじろ)。東三河の国人領主・牧野成勝が1529年(享禄2)に築いた城である。関東公方・足利持氏に仕えていた室町時代の武将・一色時家は1437年(永享9)、永享の乱で敗れ、同族を頼って三河国に移ったが、その居城として一色城(長山一色城、豊川市)を築いた。その後、時家は三河の有力氏族となり、1467年(応仁1)に応仁の乱が起こると、他の一色氏とともに西軍に属した。しかし、時家は応仁の乱の末期の1477年(文明9)、時家の被官となっていた波多野時政(全慶)に殺害され、城を奪われた。同じく時家の被官だったのが、のちに古白入道といわれた牧野城(豊川市)の城主・牧野成時である。1493年(明応2)、成時は一色城の波多野時政を攻め、灰野原の戦いに勝利して時政を討ち取って、一色城に入城し居城とした。のちにつくられた『牛窪密談記』では、そののち成時は一色城を牛窪城に改名したといわれる。成時は駿河今川氏に属したが、1505年(永正2)、今川氏親は西三河の松平氏の押さえとして、成時ら今川氏に属した三河の国人領主に今橋城(豊橋市、のちの吉田城)を築かせた。成時は同城の初代城主として牛窪城から移ったが、代わって牛窪城に入城したのが牧野成勝である。成勝は成時の子ともいわれるが、父親については諸説あり断定できていない。成勝は1529年(享禄2)に、牛窪城の近くに新たな城を築き、「牛久保城」と名づけ、居城を移した。その後、しばらく牛窪城と牛久保城という同音の城が併存することになった。牛窪城は牛久保城の前身ともいえるが、厳密には城のあった場所も異なる別の城である。このため、牛窪城は牛久保城と区別するため、牛久保古城と記されることもある。ただし、牛久保城築城後、牛窪城は牛久保城と連携して一体の城として機能したことは容易に想像できるところである。また、そののちに牛窪城は牛久保城の城域に取り込まれていったともいわれる。その後、牛久保城は成勝、貞成、成定、康成の牧野氏4代にわたる居城となった。この間、成定の時代の1561年(永禄4)に、前年の桶狭間の戦いで今川氏から自立して三河の平定に乗り出した松平元康徳川家康)の奇襲攻撃を受けた。この奇襲は失敗し、牛久保城はしばらくの間、今橋城(吉田城)とともに、家康に対する今川氏真の反撃の拠点となった。このため、牛久保城は家康の最重要の攻略目標となった。1566年(永禄9)5月、牛久保城はついに家康に降伏して開城している。このとき、城主の牧野成定は家康に帰属した。1590年(天正18)、成定の子の康成のときに、主君の家康の関東移封にともない、牛久保城の牧野氏も上野国(現群馬県)の大胡2万石に拠点を移し、初代大胡藩主となった。その後、牛久保城は吉田城に入城した池田輝政の支城となり、輝政の重臣の荒尾成久が城主となった。しかし、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いののち、牛久保一帯が天領(幕府直轄領)となった。このとき、牛久保城の一部が代官所として使われたが、1700年(元禄13)に廃城となった。数種の牛久保城の古図が現存しているが、それによると、牛久保城は豊川の古い河岸段丘を利用してつくられた二重の水堀を備えた平城であったようである。現在、城域のほとんどはJR牛久保駅や駅周辺の市街地・住宅地になっているため、大部分の遺構は失われているが、ごく一部に、かつての城を偲ばせる遺構が残り、旧本丸付近に「牛久保城址」の碑が建てられている。また、発掘調査が行われた際に堀の遺構も発見された。JR飯田線牛久保駅からすぐ。なお、この城跡の近くに、武田信玄に仕えた山本勘助のものとされる墓があり、勘助の三河出身説の根拠の一つになっている。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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