物部村
ものべむら
[現在地名]綾部市物部町
犀川中流域、城山とよぶ小丘を中心とした小盆地に位置し、北は志賀村、東は白道路村、南は新庄村、西は西保村。何鹿郡西北部の中心地で、郡と丹後国の由良川筋を結ぶ交通の要衝でもあった。地名は「もののべ」(物之部)ということもある。「丹波負笈録」は村内の小村として上市・下市・高屋・天王・中谷・諏訪木・岸田・石熊をあげるが、石熊(石隈)は現在新庄に属する。また新庄村の開田は物部村の飛地であるとしている。上市・下市は城山の麓にあって初期城下町的性格をもつものであった。物部・西保・赤目坂・白道路の四ヵ村を俗に物部四箇という。
地名の初見は貞観一一年(八六九)の「物部簀掃神」(三代実録)の記事で、古代の物部郷(和名抄)の地であるが、中世にも荘園化した形跡はなく、寛正二年(一四六一)の何鹿郡所領注文(安国寺文書)に「物部郷」として郡内でただ一つ郷名を残している。
物部村
ものべむら
[現在地名]郷ノ浦町物部本村触・柳田触・田中触・木田触
武生水村の北に位置する。北東に枝郷の喜田村がある。村名は柳田であったが、中通とも称し、さらに桜江ともいい、また旧名の物部に復したという(壱岐国続風土記)。柳田は正中二年(一三二五)二月一八日の源繁請文(吉永文書)に「壱岐島内柳田村」とみえ、同村などについて源二郎勝(吉永勝)が越訴を起こしたため、鎮西探題より出廷命令をうけた源繁は子息小次郎武を代官として派遣し、反論すると答えている。「海東諸国紀」では壱岐一三里の一つとして「也那伊多三百余戸」とあり、最大の規模をみせている。豊臣秀吉による朝鮮半島出兵では壱岐城代松浦信実が率いる軍勢に当地の横田秀友・許斐氏広・松本忠吉・中山治左衛門がいたという(壱岐国続風土記)。
物部村
ものべむら
面積:二九一・〇七平方キロ
香美郡の北東部、物部川上流の槙山川と、上韮生川の両峡谷を中心とする流域に位置し、四辺みな山岳地帯。わずかに両川の合流する大栃付近に小盆地が開ける。林野率八八パーセントという山村で、東は徳島県那賀郡木頭村、北は同県三好郡東祖谷山村と本県長岡郡大豊町に、西は香美郡香北町に、南は安芸市および香美郡香我美町に接する。東部から北部にかけては、赤城尾山(一四三六メートル)・石立山(一七〇七・七メートル)・白髪山(一七六九・七メートル)・三嶺(一八九三・四メートル)・綱附森(一六四三・一メートル)などの高山が連なり、剣山国定公園・三嶺自然休養林・奥物部県立自然公園などの山岳観光・保養地を形成し、槙山川上流の別府峡谷、上韮生川上流の西熊峡谷はともに渓谷・自然の美しさをもって知られる。また南西部の大栃付近には昭和三二年(一九五七)永瀬ダムの完成により人造湖ができ、多くの集落が水没したが、産業と観光に重要な役割を果している。
物部村
もののべむら
[現在地名]朝来町物部
円山川を挟んで伊由市場村・沢村の北西に位置し、北は久世田村(現和田山町)、南は桑市村。生野街道(但馬街道)が通り、集落は同街道に沿って発達。中世の物部庄の遺称地。寛永一六年(一六三九)の知高帳に村名がみえ、高四五三石余、宝暦六年(一七五六)には高四七八石余、反別は田二九町七反余・畑一三町二反、家数一一三・人数四三八(朝来志)。菱屋平七長崎紀行(京都大学文学部蔵)には「間の宿なり、茶屋・宿屋・農家すべて五、六十軒、十丁ばかりの間にあり」と書かれ、生野街道の間宿として賑わっていた様子がうかがえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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