物部庄(読み)もののべのしよう

日本歴史地名大系 「物部庄」の解説

物部庄
もののべのしよう

円山まるやま川左岸の、物部付近に比定される皇室領庄園。初見は応保元年(一一六一)頃と推定される七月四日付の三河権守高佐奉書(陽明文庫蔵兵範記裏文書)で、「自 公家被 仰下、上西門院御領物部下庄申文遣之、早(可令カ)尋伊由御庄候」とみえる。国名の明記はないものの伊由いゆ庄がかかわっていることから但馬国朝来郡であることが確定する。当庄は当時すでに上庄・下庄に分れ、下庄は上西門院領であった。上西門院は鳥羽天皇皇女で後白河天皇の姉。

物部庄
ものべのしよう

鎌倉期にみえる壱岐国の庄園。「和名抄」に記される石田いしだ物部郷の郷名を継承する。元弘三年(一三三三)五月二四日の内蔵寮領等目録(宮内庁書陵部所蔵山科家文書)に壱岐島物部郷とみえ、御服料所であり、中原職政の知行であった。観応二年(一三五一)壱岐島物江郷内の三郎左衛門入道女子跡二反などがおお(現大島村)を拠点とする大島聞に勲功賞として宛行われたが(同年一二月二五日「足利直冬下文」来島文書)、物江は物部の誤記であろう。同三年松浦清が壱岐島内の物部庄の田地五段を今福いまふく(現松浦市)の五社神に寄進している(同年二月九日「松浦清寄進状写」早田文書)。永徳三年(一三八三)今川仲秋が物部庄の三分一を兵粮料所として松浦山代豊前守に預け置いている(同年一二月一四日「今川仲秋預ケ状」山代文書)

物部庄
ものべのしよう

物部川の下流域にあたる南国市物部・立田たてだおよび現香美郡野市のいち上岡かみおか辺りに比定される。「和名抄」にみえる物部郷に比定される地で、立荘の時期は不詳だが、高岡郡仁井田にいだ郷五社大宮(現窪川町の高岡神社)の貞和五年(一三四九)一一月三日付の鰐口銘(蠧簡集)に「八幡物部庄上岡」とみえる。康安二年(一三六二)一一月一三日付の物部庄惣案主職沽券状(「香宗我部氏記録」所収西山文書)によると、案主職を相伝していたのは在地豪族の藤原氏であったらしく、この時藤原隆重は、香宗我部甲斐次郎の母の太夫(尼大輔)に案主職を売渡している。甲斐次郎は香宗我部時秀の次男氏秀で、香宗我部氏の分家西山氏の祖である。

物部庄
ものべのしよう

洲本川南岸、現物部・上物部地区一帯に比定される。「和名抄」所載の津名つな郡物部郷の地に成立したとみられる。貞応二年(一二二三)の淡路国大田文に、津名郡の庄分として京都仁和寺御室領の「物部庄」がみえ、田七〇町、畠、浦一所からなっていた。地頭は「前地頭四郎国御家人、但無誤由訴申、新地頭宇佐見五郎兵衛尉」とあり、国御家人四郎は承久の乱で幕府に反したことを否定したにもかかわらず更迭され、新地頭が据えられたようである。文明一〇年(一四七八)八月日の仁和寺当知行・不知行所領文書目録(仁和寺文書)の「御当知行御文書目録」のうちに「一結 物部庄」とみえ、この頃も仁和寺の支配が維持されていたようである。

物部庄
もののべのしよう

「和名抄」記載の栗太くりた郡物部郷の地に成立したとみられる庄園。鎌倉期には奈良興福寺領で、文永二年(一二六五)頃のものと思われる年月日欠の興福寺人夫召注文(内閣本大乗院文書御参宮雑々)に庄名がみえ、人夫一〇人を同寺へ出すよう命じられていた。弘安八年(一二八五)五月二〇日書写の興福寺維摩会不足餅等定(興福寺文書)でも薦一〇枚を納めることとなっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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