狼河原村(読み)おいのかわらむら

日本歴史地名大系 「狼河原村」の解説

狼河原村
おいのかわらむら

[現在地名]東和町米川よねかわ

二股ふたまた川上流に集落が散在し、北は七曲ななまがり峠を経て磐井いわい藤沢ふじさわ(現岩手県東磐井郡藤沢町)、東は大綱木おおつなぎ峠を経て本吉もとよし馬籠まごめ(現本吉町)への道が続き、西は寒風さむかぜ峠・物見ものみ峠を経て嵯峨立さがたち村、南東鱒淵ますぶち村があり、二股川下流に西郡にしこおり村がある。東から二股川が、北から綱木川が流れ、二河川に沿って狭い耕地が長く続く。集落は二股川に沿って西上沢にしかみさわ仲上沢なかかみさわ・東上沢と続き、綱木川に沿って下綱木・上綱木と続く。村名の由来は、もと河原村といったが、三峰権現の化身の白狼の助けにより、幼い兄妹がこの地で仇討を成就したことによるという(米川村誌)。暦応二年(一三三九)五月日の板崎為重軍忠状(朽木文書)によれば、四月二八日に「大将御共仕、本良郡押寄、大犬河原楯一迫太掌一族相共」に奮戦しており、この軍忠状は足利直義により確認されている。米谷まいや城主亀卦川小太郎光明の弟信明が、応安二年(一三六九)采地三〇〇余貫を得て狼河原城に入り(「平姓千葉一家亀卦川氏系譜」亀卦川義雄家文書)、天正一八年(一五九〇)葛西氏滅亡まで畑沢はたざわ(鳩岡城)に住んだという。慶長五年(一六〇〇)の山岡重長以下人数書(伊達家文書)に「けせん、登米元良深谷、狼かハら」と記される。

もとは本吉郡であったが、寛永年間(一六二四―四四)登米郡になったといい、正保郷帳に田六八貫二三九文・畑六一貫三五文とあり、ほかに同所新田一貫九二文があり、柴山と注記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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