班子女王(読み)はんしじょおう

朝日日本歴史人物事典 「班子女王」の解説

班子女王

没年昌泰3.4.1(900.5.2)
生年:天長10(833)
平安前期の女御。皇太后,洞院太后。父は仲野親王,母は当宗氏。時康親王(光孝天皇)の即位以前に妃となり,定省親王(宇多天皇),為子内親王ら4男4女を生む。元慶8(884)年,光孝の即位により従三位女御。仁和3(887)年に光孝が没し宇多天皇が即位すると皇太夫人,孫醍醐天皇の即位により皇太后となる。寛平9(897)年,元服と同時に即位した醍醐天皇に娘の為子内親王を入内させ,妹穏子を入内させようとした藤原時平の画策を停止させるよう宇多天皇に命じた。昌泰2(899)年為子内親王が出産後没すると,穏子の母の怨霊によって死んだとの浮説が巷に流れ,皇太后はますます不愉快になり穏子の入内を拒み続けた。穏子の入内が果たされたのは,班子女王の没後であった。国母が強大な発言権を持っていたことをうかがわせる。山城浄福寺建立した。生年を仁寿3(853)年とする説もある。

(服藤早苗)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「班子女王」の意味・わかりやすい解説

班子女王 (はんしじょおう)
生没年:833-900(天長10-昌泰3)

平安前期の女御。桓武天皇の子仲野親王と当宗氏女との間に生まれる。仁明天皇の子時康親王(光孝天皇)と結婚し,夫の即位により女御となり,次いで子宇多天皇の即位によって皇太夫人,後さらに皇太后となる。山城国に浄福寺を建立した。彼女の宮で催された《寛平后宮(きさいのみや)歌合》は,《古今和歌集》の勅撰にいたる和歌復興過程における画期的な試みであった。〈洞院太后〉の称がある。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「班子女王」の解説

班子女王 はんしじょおう

833-900 平安時代前期,仲野親王の王女
天長10年生まれ。母は当宗(まさむね)氏。時康親王(光孝天皇)の妃となり,定省(さだみ)親王(宇多天皇)らを生む。元慶(がんぎょう)8年光孝天皇即位により女御(にょうご)。仁和(にんな)3年宇多天皇即位によって皇太夫人,のち皇太后となる。洞院太后と称された。山城(京都府)浄福寺を建立。従二位。昌泰(しょうたい)3年4月1日死去。68歳。

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世界大百科事典(旧版)内の班子女王の言及

【仲野親王】より

…親王は奏寿宣命の道に秀で,世の模範とされた。その女班子(はんし)女王が光孝天皇の女御となり,子定省親王が即位(宇多天皇)したため,外祖として一品太政大臣が贈られた。【佐藤 宗諄】。…

※「班子女王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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