朝日日本歴史人物事典 「班子女王」の解説
班子女王
生年:天長10(833)
平安前期の女御。皇太后,洞院の太后。父は仲野親王,母は当宗氏。時康親王(光孝天皇)の即位以前に妃となり,定省親王(宇多天皇),為子内親王ら4男4女を生む。元慶8(884)年,光孝の即位により従三位女御。仁和3(887)年に光孝が没し宇多天皇が即位すると皇太夫人,孫醍醐天皇の即位により皇太后となる。寛平9(897)年,元服と同時に即位した醍醐天皇に娘の為子内親王を入内させ,妹穏子を入内させようとした藤原時平の画策を停止させるよう宇多天皇に命じた。昌泰2(899)年為子内親王が出産後没すると,穏子の母の怨霊によって死んだとの浮説が巷に流れ,皇太后はますます不愉快になり穏子の入内を拒み続けた。穏子の入内が果たされたのは,班子女王の没後であった。国母が強大な発言権を持っていたことをうかがわせる。山城浄福寺を建立した。生年を仁寿3(853)年とする説もある。
(服藤早苗)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報