甘縄(読み)あまなわ

日本歴史地名大系 「甘縄」の解説

甘縄
あまなわ

長谷はせ東部一帯から佐々目ささめやつ佐介さすけヶ谷・無量寺むりようじ谷の辺りまでを含む地域の古称。「吾妻鏡」では治承四年(一一八〇)一二月二〇日条に、源頼朝が「今月御行始之儀、入御藤九郎盛長甘縄之家」とみえるのを最初としてしばしば現れる。

甘縄神明社の鎮座する付近が本来の中心地らしく、頼朝腹心の武将安達盛長の屋敷は、神明社の南部付近にあったと伝承されている。安達氏は幕府重臣として栄え、鎌倉時代末に至るまでこの地に屋敷があった。付近には武士邸宅も多かったようで、安達氏屋敷の南方には千葉氏の屋敷があり(「吾妻鏡」寛喜三年一〇月一九日条)、正中三年(一三二六)から元徳元年(一三二九)と推定される一〇月一九日夜、甘縄の安達時顕邸南頬の、いながき左衛門入道宿所から出火して、南は北条時益の家の北側、時益の家人の糟屋孫三郎入道道暁ら数人の家が焼けている(年未詳一一月一一日「崇顕金沢貞顕書状」県史二)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報