長谷村
ながたにむら
[現在地名]宝塚市長谷
三蔵山南麓、長谷川の上流にあたり、大原野村の北東に位置する。中世は能勢郡長谷村(現大阪府能勢町)に対して西長谷村とも称した。川辺郡に所属。文禄三年(一五九四)石川久五郎によって検地が行われたといい、延宝七年(一六七九)の検地帳(長谷自治会文書)に載る古検高は二四二石余。慶長国絵図に村名がみえ高二五〇石余。正保郷帳では枝郷芝辻村が載る。延宝検地で新開は高六石余であったが、検地竿を短くしたことによる丈量面積の増加や等級違いなどが六一石余あり、高三一四石余となった(前掲検地帳)。享保二〇年(一七三五)の摂河泉石高調では高三一八石余、除地高三石余。大坂夏の陣まで片桐且元領であったとされ(前掲検地帳)、陣後幕府領となる。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では幕府領摂津代官長谷川藤継預地。貞享三年(一六八六)以降の領主の変遷は境野村に同じ。片桐氏治世下では灌漑用水池が多く掘られ、江戸時代に掘られた池面積の九割を占める(前掲検地帳、「長谷村御普請明細帳」長谷自治会文書)。
千本間歩とよばれる鉱山が南北朝時代に開かれ鉱民など一〇〇軒を数えたといい、久徳寺・三蔵寺など五ヵ寺が設けられた(「多田銀銅山略記」山内家文書)。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]能勢町長谷
神山村の西に位置し、南は三草山・堂床山を隔てて川辺郡(現兵庫県)。長谷川の上流域にあたる。地名は応安元年(一三六八)四月八日の金堂供養棟別銭注文(多田神社文書)に「能勢長谷 止々呂岐下荘」とみえる。この時の棟別銭は一庄平均に寺社本所加納の地に至るまで残らず課されているので、当村は当時多田庄(現兵庫県川西市)の一部を構成していたものと考えられる。永和元年(一三七五)七月二五日の諸堂造営棟別銭郷村注文(同文書)には「能勢長谷六十七々」とみえ、年未詳(後欠)多田庄段銭結解状(同文書)には「能勢長谷九丁三段三十歩内現地二丁四段小分銭」、永正三年(一五〇六)三月二七日の多田庄段銭結解算用状(同文書)には「東長谷村九丁三反卅歩、納分壱貫六十六文未進アリ」と記されている。室町末期―戦国時代には能勢郡採銅所に属する長谷庄があった。
長谷村
はせむら
面積:三二〇・二八平方キロ
東は赤石山脈(南アルプス)北部の駒ヶ岳・仙丈ヶ岳・北荒川岳・塩見岳等標高三〇〇〇メートル前後の山岳地帯で山梨・静岡両県に接し、西は北流する三峰川を隔てて三ッ界山や戸倉山の連なる伊那山脈をもって高遠町・伊那市・駒ヶ根市に接する。北は入笠山や釜無山をもって諏訪郡富士見町と境し、南は分杭峠以南が下伊那郡大鹿村に接する。
地質学上、藤沢川の谷を抜けている中央構造線が非持から三峰川に沿って市野瀬へ通じ、粟沢川の谷を上って分杭峠を下伊那へ延びていて、俗にこの線の東側の土の色は青色、西側は赤色で、青色の土地は水に弱く山崩れが起きやすいといわれている。
長谷村
はせむら
[現在地名]春日町国領
村中を竹田川が流れ、北は棚原村、南は瓶割峠(国料坂とも)を越えて多紀郡追入村(現篠山市)、西は譲葉山(五四一・四メートル)。「丹波志」は東長谷・西長谷・奥長谷を支村とし、町並を穀料(国料)町とする。永正二年(一五〇五)に細川政元の被官大槻高延が春日部庄内の長谷村と舟木西村および御蔵米方の代官職を三年を限って請負っている(同年三月一〇日「大槻高延代官職請文」・同年三月二〇日「細川政元書状案」赤松春日部文書)。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]美和町大字長谷
玖珂郡の北東部に位置し、北は百合谷、東は小瀬(現岩国市)、南は多田・阿品(現岩国市)、西は日宛の各村に囲まれた山村。岩国から松尾峠を越えて山代郷に入る最初の村で、二つの谷川が村内北部で一つになり北流、大根川となる。集落はこの谷間に散在する。岩国藩領。
寛永二〇年(一六四三)に藤谷村を分割してできた村で、村名は慶安四年(一六五一)の「御領分村一紙」に出るのが早い。
長谷村
ながやむら
[現在地名]掛川市長谷・中央高町・清崎
逆川の流域にあり、東は下俣村。西端部を東海道が通る。分間延絵図には街道の両側に一里塚が描かれている。これは大池一里塚と称され、南側は当村内、北側は大池村内であったという。現在は宅地化され消滅。天正一七年(一五八九)七月七日、「なかや村」に徳川家七ヵ条定書(高鳥文書)が出されているが、これは当村に対してのものであろう。同一八年一〇月七日の山内一豊蔵入所目録(思文閣古書資料目録)に「長谷」は二七八石一俵余とみえる。
長谷村
はせむら
[現在地名]鳥取市長谷・西円通寺
倭文村の南、砂見川の下流左岸に位置し、砂見谷の入口にあたる。大井手用水が村内を北流する。慶長一〇年(一六〇五)の気多郡高草郡郷帳に「初瀬」とみえる。拝領高は三四四石余、本免五ツ一分。天保三年(一八三二)の山林反別一反余。藪役銀一匁二分・川役銀四五匁が課されていた(藩史)。松井氏・森氏・西野氏・矢野氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」では家数四九。天保一四年の村々人数増減書上帳(加藤家文書)によると男九七・女八三。嘉永二年(一八四九)の組合帳(同文書)では竈数三八。
長谷村
ながやむら
[現在地名]岩井市長谷
岩井村南西に所在。西は利根川とその流作場。字中妻の拾二ゴゼ貝塚からは縄文土器片・石鏃・石斧・石錘・石匙などが出土。また円墳の大日塚古墳が字片神辺にあり、大日如来の石碑が建つ。戦国期に北条氏康は長谷河岸の問屋に安堵状を与えて舟運の権利を保証したと伝えられ、天正二年(一五七四)の古河公方足利義氏料所目録(喜連川文書)には「なかや 豊前左衛門」とある。一方、天正一六年には土岐(菅沼)定政が館を構えたとも伝える。江戸時代には下総関宿藩領で、宝永三年(一七〇六)の村明細帳(長野監治文書)によると村域は東西一千五八六間・南北二千二〇六間、村高六五七・六六石。
長谷村
はせむら
[現在地名]厚木市長谷・毛利台一―三丁目
高松山丘陵の東、長谷原の台地に位置し、東は船子村、西は小野村、南は愛甲村、北は温水村・愛名村に接する。巡見道が村の東部を通る。集落は南側台地の下部に東西に帯状に連なり、その南方に水田が開ける。正保国絵図に「長谷村」と出る。
近世は、寛永期(一六二四―四四)まで幕府直轄領。以後旗本領のみ、あるいは幕府・大名領を交えての五給・四給が続くが、文化八年(一八一一)以後は佐倉藩と旗本領の六給となる。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]頓原町長谷
花栗村の西に位置し、北は刀根村(現掛合町)、南は下来島村(現赤来町)。当村の西を須佐川(現神戸川)が北流、南東を西流する頓原川は下来島村内で須佐川に入る。村内中央を西流する長谷川は同村丸山で須佐川に注ぐ。正保国絵図に村名がみえる。寛文九年(一六六九)の検地帳では六六九石余、屋敷数三八。寛政一〇年(一七九八)の定免相札(飯石郡誌)では高六九六石余。
長谷村
ながやむら
[現在地名]茂原市長谷・中部・緑ヶ丘
鷲巣村の北に位置し、九十九里平野の平坦部と丘陵の接点にあたる。長屋とも記される。観応二年(一三五一)一一月七日の室町幕府執事奉書(野田文書)によると、上杉宮内大輔跡の「上総国長屋郷」を細川頼和代官に沙汰付けるよう佐々木秀綱は命じられており、長屋郷は当地付近に比定される。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に長谷村とみえ、高四二五石。寛文四年(一六六四)の生実藩領郷村高辻帳では高四二五石余で、村高は以後変わらない(旧高旧領取調帳など)。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]岩美町長谷
湯村の東に位置する。拝領高は一七七石余、本免は四ツ一分。藪役銀五匁八分余を課されており(藩史)、鵜殿氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によれば家数六四。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高三一九石余、竈数六七。村域の大半を山林が占め藩の御立山が設けられていた。享保一九年(一七三四)白地村と山論が起こり、藩の裁定で村境と御立山の境界が確定された(在方諸事控)。割木(薪)を産した(因幡民談記)。寛永二〇年(一六四三)浦富村の番所で使用する薪は当地内で伐り取り、その際に一般の百姓を使役せず番所の下働きの者に伐らせるよう定められた(御船手御法度)。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]豊岡市長谷神美台
出石郡に属し、倉見村の北に村域が広がり、北東部から南東部にかけては丘陵地。北の支谷を篠谷とよび臨済宗大安寺跡と応永一八年(一四一一)没の開山大機(円通寺文書)の碑があり、南の支谷には大和長谷寺(現奈良県桜井市)の観音を勧請して造堂、これが当地名の由来と伝える。天正三年(一五七五)五月当地に遊んだ但馬守護山名氏被官の垣屋氏と田結庄氏が事を構えたと伝え(但州一覧集)、一一月二四日付の八木豊信書状(吉川家文書)によると同年一〇月垣屋氏が田結庄氏を滅ぼしている。
長谷村
はせむら
[現在地名]鎌倉市長谷一―五丁目・由比ガ浜三―四丁目・坂ノ下
大仏坂切通の南側一帯に位置し、北は常盤村・扇ヶ谷村、東は大町村・乱橋材木座村、西は極楽寺村・笛田村、南西は坂之下村に接する。所在する長谷寺にちなんだ村名と考えられるが、「吾妻鏡」などにはみえない。江戸初期の十二所村等鎌倉中幕領寺社領相給村総高帳(県史六)には、他の諸村と並んで長谷村とみえ、また村内南部の新宿は独立に永四〇〇文の船役を負担している。江戸時代初めに甘縄と深沢の一部を併せて長谷村としたという(皇国地誌)。
近世は幕府直轄領と一部が長谷寺領。同寺や鎌倉大仏の門前町にあたり、「風土記稿」によれば、長谷小路から神明町を経て上町に至る道の両側に人家が並び、農間余業に旅館を営み、小名新宿では漁業も営んだという。
長谷村
はせむら
[現在地名]菊鹿町長
西部を内田川が南流し、傾斜地の多い山がちの村で、東は太田村、東から南は下内田村、西は今田・霊仙村(現山鹿市)、北は長谷川村と接する。近世は山鹿郡中村手永に属した。宝暦二年(一七五二)の中村手永御蔵納手鑑によると、下内田村の枝村の一つが独立し長谷村となったとあり、元禄国絵図には村名がなく、明和九年(一七七二)の「国誌」には独立村として記載されていることなどから、独立は元禄一四年(一七〇一)から宝暦二年の間と推定される。
長谷村
ながやつむら
[現在地名]吉見町長谷
黒岩村の西に位置し、村域は西の比企郡平村(現東松山市)に続く台地上を占める。北は田甲村。地内には正安元年(一二九九)・貞治七年(一三六八)・応安三年(一三七〇)の板碑がある。田園簿では田高三四石余・畑高四四石余、幕府領。日損場との注記がある。延宝六年(一六七八)検地が行われ(風土記稿)、元禄郷帳では高二八三石余。「風土記稿」成立時には旗本押田領と幕府領との相給。のち一部が旗本荒川領となった(「郡村誌」など)。「風土記稿」では家数五〇余。用水は山間の溜井を用いたが、しばしば旱損に悩まされた。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]奈良市長谷町
白砂川上流、南田原村南方の渓谷村、東は一台峠を越えて杣川村。慶長郷帳の村高二二四・三二石。幕府領(代官大久保長安)から元和五年(一六一九)津藩(藤堂高虎)領となる。元禄郷帳では村高二二五・六二石。「宗国史」に「永谷」とみえ、戸口五八軒一七七人、神社は山王権現、寺院は宮寺・観音寺・尾寺、馬七疋とある。享和郷帳には「長谷村者山辺郡山田村之内」と注記する。小字古城に残る長谷城跡は長谷氏の居城であったという。「大乗院雑事記」文明一三年(一四八一)一〇月三〇日条に「山内長谷館自古市追落了」とある。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]蘇陽町長谷
五ヶ瀬川支流の神働川上流域にあり、明治九年(一八七六)の合併により成立した村名。東は蔵木山村、西は大見口村、北は梶原村・旅草村、南は玉目村に接する。近世には上流から目細村・稲生村が並ぶ。文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇家文書)に「一所きりき二百文 まめ一斗 一所いねお二百文 まめ一斗 一所つか野二百文 大豆一斗」とみえ、稲生村、小字として見いだせる切木・塚野の地名がみえる。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]左京区岩倉長谷町
岩倉盆地の東北、瓢箪崩山西麓に流れ出る長谷川沿いの地。東は八瀬、西は岩倉、南は中村に接する。
永谷(「権記」長保四年九月一九日条)、長多仁(同寛弘二年九月二四日条)などとも記され、平安時代には聖護院や解脱寺などの寺院が営まれた。一方、「後拾遺集」の藤原公任の歌の詞書にも「世を背きて長谷に侍りける頃」と記されるように、隠棲地としても開かれた。
古くから聖護院領であったと伝えられ(京都府地誌)、江戸時代以降も、享保一四年(一七二九)の山城国高八郡村名帳によると、石高五五一石のうち、聖護院領四七六石、残り七五石が若王子院家領となっている。
長谷村
ながやむら
[現在地名]八日市場市長谷
吉崎村の西に位置し、南東は九十九里浜に面する。寛永二年(一六二五)の知行宛行状によると匝瑳郡「長井」の三八〇石が旗本犬塚領となっており、「長井」は当村のこととみられる。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳でも同氏領三八〇石とあり、野手組に属した。旧高旧領取調帳では高五一二石余で幕府領一六石余・犬塚領四九六石余。漁業のほか、製塩が盛んであった。釜野(製塩する釜場)の横領をめぐり当村内で争論が起き、貞享二年(一六八五)に裁許絵図(如来寺蔵)が下し置かれ、多数の処刑者を出している(如来寺文書)。同絵図には二〇を超える釜野が描かれている。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]加茂市長谷
村松(現中蒲原郡村松町)から鹿峠村(現南蒲原郡下田村)に出る道が長嶺筋(丹波街道)と松坂筋に分れる岐点に位置し、道は西は黒水村、東は上土倉村に続く。正保二年(一六四五)の村松領郷村高辻帳(加茂市史)によれば田方五町一反余で高七七石四斗余、畑方五町四反余で高二四石九斗。正保初年の物成高を記した「初免石」(「村松小史」渡辺芳江氏蔵)では五九石五斗余、家数一五。元禄郷帳では一〇二石四斗余。宝暦九年(一七五九)の七谷組紙漉船数改帳(山崎徳左氏蔵)によれば船役一一船、紙漉百姓一一軒。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]野上町長谷
柴目村の北西、貴志川の支流山田川に向かう谷筋に集落が点在する。この谷間には本郷西浦が、また西浦の東方稲荷山(三一八・八メートル)北側には小名大藪がある。中世前期には東南隣の柴目村や西北隣の七山村(現海南市)などとともに山城石清水八幡宮領であったらしく、承久二年(一二二〇)一二月日付の石清水八幡宮検校祐清譲状(石清水文書)に「長谷村」がみえる。その後高野山領となり、小河柴目庄に含まれたと考えられる。
長谷村
はせむら
[現在地名]古河市長谷町など
西の古河城を囲む沼地の続きに三方を包まれた台地上に所在。付近からは縄文前期を主体とした土器片が採集される。
中世までの村域は北側の沼・谷津田を越えて古河町の台地にまで及んでいたが、近世の城下町の整備により古河台地の部分を城下の侍屋敷にとられ、長谷村と古河町分の長谷(長谷町)の二つに分離した。おそらく元和六年(一六二〇)奥平忠昌によって行われた古河城下の大改造のときであろう。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]舞鶴市字長谷
岡田川の支流長谷川に沿って立地する山村。「丹哥府志」によれば、八戸地より八戸地峠を越えて長谷村へ出る「宮津の道」があった。享保三年(一七一八)の領中郷村高付によれば上漆原村の枝村。農林業のほか竹細工が盛んであった。
集落北東約二キロの長谷川をさかのぼった谷間、小字大谷に長谷日限地蔵尊が祀られる。ここは宮津に通ずる巡礼路にあたり、田辺から中山村の渡船場に出、対岸和江村に渡り、国分寺谷に入り同地蔵尊の前を通り、上漆原村を経て宮津に出た。
長谷村
はせむら
[現在地名]津市片田長谷町
産品村の西、長谷山の西側斜面と裾にある。田中村から家所村(現安芸郡美里村)に至る道が通る。文禄検地帳の転記と思われる伊勢国中御検地高帳には「長谷奥村」と記され、慶安郷帳(明大刑博蔵)では「長谷村」とある。村名は長谷山中腹の長谷寺による。字東谷をはじめ数基の古墳が散在する。慶長一三年(一六〇八)以降津藩領。慶安郷帳の高一二七・九九三石、慶安元年(一六四八)の平高は二一五・三八八石である(「検邑秘禄書中目録」一志町中谷家蔵)。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]小松市長谷町
大杉谷川左岸の山間にあり、北は江指村、東は金平村。「ながだに」とも発音する。中世は軽海郷の河内に属し、鎌倉末期頃と思われる軽海郷百姓交名注文(金沢文庫文書)に「長谷百姓」として弥四郎入道以下六人の名前がみえる。正保郷帳では高九七六石余、田方四一町八反余・畑方一五町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高九七六石、免三ツ七分、小物成は山役四八〇匁・もぢ川役一三匁、畳表役三分(出来)であった(三箇国高物成帳)。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]野村町長谷
稲生川支流の長谷川流域の山村。東は四郎谷村に接し、北・南は五〇〇―六〇〇メートルの山に囲まれ、西には羽子の木峠(六二七メートル)がある。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「長谷村 柴山有、茅山有、小川有」と記される。
太閤検地の石高は一四七石二斗、耕地面積の比率は田六五パーセント、畑三五パーセントであったが、寛文検地には石高は約一・四倍に増加し、田七二パーセント、畑二八パーセントの比率になっている。「
墅截」による村柄は「下」、耕地は田が「中ノ下」、畑が「下」、水掛りは「吉」である。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]桜江町長谷
市山村の南西、八戸川上流域左岸の山間村。八戸川の支流長谷川の河谷に形成された長谷西・南郷谷・長谷東と、家古屋川の支流山中川の谷に形成された山中西・山中郷・山中東などの集落からなる。元和三年(一六一七)竹村丹後守より亀井政矩へ渡された津和野藩領諸村のうちに長谷村とみえ、高六四六石余。正保国絵図に長谷とみえ、高六四六石余。宝永石見国郷村帳では高六四六石余、天保郷帳では一千一〇二石余。これらの高は八戸村の高を包括している。しかし津和野藩地方支配上では八戸村を分村しており、天保六年(一八三五)の津和野御領分万書留記(加登屋嘉兵衛旧蔵文書)では長谷村七〇七石余。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]倉吉市長谷
中野村の西、北谷川支流長谷川の中流域に位置し、北は悴谷村。拝領高は六〇石余、本免は五ツ七分。倉吉組士の金井氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高七〇石余、竈数一三、村内に熊野権現(二社)・小カラス大明神を祀る。幕末の六郡郷村生高竈付では生高九二石余、竈数一四。藪役銀八六匁二分が課されていた(藩史)。享保一四年中野村との間で草山入会をめぐる相論が生じたが、翌一五年和談となっている(在方諸事控)。伊弉諾命を祀る長谷神社は大正五年(一九一六)森の山長神社に合祀された。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]玉川町長谷
現玉川町のほぼ中央部にあり、蒼社川に沿う南北に長い村。東は蒼社川を挟んで高野村・鬼原村に対し、南は鈍川村・竜岡下村、西は桂村・三段地村に接する。
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の越智郡の項に「長谷村 定水所、川有、野山有、林少有」とみえ、村高は四五三石一斗五升一合である。同年の今治御領分新高畝村人数帳では田畑五八町八反(山畑を含む)、人数一六九人であるが、貞享元年(一六八四)の今治藩御改革領内調書では田畑四〇町九反、人数六〇六人となっている。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]三川村上戸谷渡 長谷
東は五十島村の山、西は小山田村(現五泉市)、南は高石村(現中蒲原郡村松町)、北は阿賀野川を隔てて取上村・熊渡村がある。集落の東側を長谷川が流れる。元禄郷帳では五三石七斗余。文化年間(一八〇四―一八)の家数三〇(新編会津風土記)。明治八年(一八七五)の戸数二七・人口一五二。元和六年(一六二〇)に漆木役として一五八本八分とある(津川旧記)。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]吉川町長谷
山上村の西に位置し、美嚢川中流右岸に立地する。室町時代には永谷村と記され、万里小路家領であった。慶長国絵図に村名がみえる。初め姫路藩領、元和三年(一六一七)同藩主池田光政が鳥取に転封となったため上知され、同年幕府領と明石藩領の相給となる(正保郷帳・「寛文朱印留」など)。延宝七年(一六七九)幕府領となったと推定され、弘化二年(一八四五)幕府領と遠江浜松藩(のち上総鶴舞藩)井上氏領の相給となり(旧高旧領取調帳など)、幕末に至る。正保郷帳では田方二四九石余・畑方四五石余、うち明石藩領二五石余。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]犬飼町柚野木 長谷
荻原村の南方、大野川東岸の台地上にあり、南東に大峠山を望む。南西は山奥村。江戸時代を通じ臼杵藩領。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には長谷村が戸上村など四ヵ村分と一括された一冊が含まれ、村位は中。同一一年の惣御高頭御帳に長谷村とみえ、鍋田村組に属し、高一七三石余。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方一〇一石余・畑方七二石余、柴山外有と注記される。
長谷村
はせむら
[現在地名]鞍手町長谷
新北村の南に位置する。南に六ヶ岳を控え、当村南東部の谷から西川(室木川)支流の長谷川が流れ出る。西は八尋村。村名は、村内にある長谷寺によるという(地理全誌)。もとは新北村の枝村であったが(田圃志など)、のちに分村した。寛政三年(一七九一)には庄屋甚七がいることが確認できるため(「御触状写」中野文書)、これ以前に分村したと考えられる。
長谷村
はせむら
[現在地名]畑野町長谷
畑方村・畑本郷村・坊ヶ浦村の南。国府川の支流長谷川の上流にあたり、並行して松ヶ崎道が通る。道の奥は小倉村。道沿いにある長谷寺とその寺家・寺百姓によってなる山間の村。慶長四年(一五九九)の河村彦左衛門尉年貢請取状(同寺蔵)では半納合計一二石二斗余である。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]敦賀市長谷
御名村の西、野坂山の北東麓の扇状地上に位置し、東南は山村。古くは野添と称したという(滋賀県物産誌)。寛正三年(一四六二)二月一〇日付長谷玄橘田地売券(西福寺文書)に「長谷」とみえる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高二九七石余。正保郷帳も同高、田方二九四石余・畠方三石余。寛文八年(一六六八)小浜藩領より加知山藩領となる。
長谷村
はせむら
[現在地名]常陸太田市長谷町
真弓山地西側の谷間にあり、西は田渡村。「新編常陸国誌」の長谷村の項に「旧幡村ヨリ分レテ、一村トナリシト云フ」とあるが、文禄四年(一五九五)七月一六日付の御蔵入目録(秋田県立図書館蔵)に「はせ」とあり、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「長谷村」とみえる。「新編常陸国誌」によると、明和元年(一七六四)の戸数一九・人口八四、文化二年(一八〇五)の戸数一四。
長谷村
はせむら
[現在地名]西区櫨谷町長谷・糀台一―五丁目・竹の台一―三丁目・同六丁目
櫨谷川中流域に位置し、西は栃木村。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳によると田方二二三石余・畑方五四石余、芝山あり。明石藩領中里組に所属。享保年間(一七一六―三六)の「明石記」によると高二七八石余、東西三町半・南北一町半。池一六・井四・川堤・御藪・自分山五・野山など。天保郷帳では高三一三石余。小祠は歳之神・神明森。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]城川町魚成 成穂
北から魚成川へ入る支流沿いの小山村。魚成五ヵ村の一(→魚成村)。
太閤検地の石高は七九石五斗二升四合、耕地面積の比率は田が五七パーセント、畑が四三パーセントである。寛文検地では約三・七倍に石高が増し、田三六パーセント、畑六四パーセントとなっている。「
墅截」による村柄は「下」、耕地は田が「中」、畑が「下」、水掛りは「吉」である。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]下市町大字長谷
丹生川と支流長谷川との合流地、谷村の東に立地。丹生郷のうち。慶長郷帳では村高一二二・四四五石、幕府領(代官大久保長安)。のち延宝検地により村高は一六四・一〇四石となった。延宝七年(一六七九)の大和国吉野郡長谷村検地帳によると、反合一三町二反五畝六一歩で、楮畑・漆畑・茶畑の記載がある。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]大洲市長谷
肱川の支流嵩富川の上流域、現東宇和郡宇和町境にある小村。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の喜多郡の項に「長谷村 茅山有」とある。大洲藩領。元文五年(一七四〇)の「大洲秘録」によれば、米・大豆・薪・柿の土産がある。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]吉備町長谷
船坂村の北方に位置し、西北の高坪山、南東の鷲ヶ峰山塊に囲まれる山村。慶長検地高目録には「長谷畑村」とみえ、村高五三石余、小物成七升三合。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]今立町長谷
室谷村の南東にあり、水間谷の中央部に位置する。南は水間川を隔て坂下・殿の両村と相対する。慶長三年(一五九八)の長谷村検地帳(長谷川家文書)では村高三二七・六三石。
長谷村
ながたにむら
[現在地名]東条町永福
黒石村の南西、東条川右岸の東条谷の南東端にある。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳によると田方二三〇石余・畠方二四石余、幕府領。以後の領主の変遷は天神町と同じ。
長谷村
はせむら
[現在地名]多気町長谷
神坂村の西にある。近長谷寺の所在地として知られる。近世は和歌山藩田丸領。明治二年(一八六九)大指出帳(徳川林政史蔵)によれば家数は一〇、人数は五七、ほかに僧侶が二人、牛七。
長谷村
ながやむら
[現在地名]野田市長谷、茨城県岩井市長谷
小山村の北、利根川の流域に位置する。猿島郡に属し、「はせ」ともいった。集落および村域の過半は利根川の左岸、現茨城県側にあり、同川右岸、現野田市域にあった一部耕地も明治四四年(一九一一)から昭和初期にわたる利根川改修工事によりほぼ全域が同川の河川敷・堤下となった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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