改訂新版 世界大百科事典 「甘露寺家」の意味・わかりやすい解説
甘露寺家 (かんろじけ)
藤原氏北家,勧修寺(かじゆうじ)の嫡流。家格は名家。贈太政大臣藤原良門の子で贈太政大臣高藤の曾孫権中納言為輔に始まる。為輔がはじめて甘露寺と号したが,その子孫は勧修寺,吉田あるいは坊城を称していた。しかし南北朝時代の藤長が権中納言に補任されたとき,同門の吉田国俊も参議から権中納言に昇進したため,藤長が甘露寺を称して以来,代々これを家号とした。家系をみると,平安時代後期の参議為房は《大記》(《為房卿記》)の,その子参議為隆は《永昌記》の筆者として著名であるが,鎌倉時代に入っても為隆の孫権大納言経房は《吉記(きつき)》を,経房の玄孫権大納言経長は《吉続記》を著している。また藤長の曾孫権大納言親長およびその子同元長は,故実典礼に通じ,ともに室町時代の代表的日記である《親長(ちかなが)卿記》《元長卿記》の記者である。さらに江戸時代の権大納言篤長やその孫権中納言愛長の日記も有名である。まさに日記の家であるが,笛のほかに儒道を家業とした家の面目躍如である。江戸時代の家禄は200石。1884年(明治17)華族令の制定により伯爵を授けられた。なお万里小路(までのこうじ),清閑寺,堤家はこの支流である。
→勧修寺(かじゅうじ)家
執筆者:米田 雄介
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報