田野辺村
たのべむら
[現在地名]市貝町田野辺
文谷村の北東、小貝川支流の桜川流域の丘陵上に開けた村で、南は別府村、北西は杉山村。慶安郷帳に村名がみえ、高三六〇石余のうち幕府領が田一四〇石・畑一〇二石余、旗本千本領が田七〇石・畑四七石余。元禄一一年(一六九八)の高反別帳(大畑家文書)によれば、幕府領六四九石余が旗本岩瀬の知行となり、田二四町三反余・畑六一町四反余とある。岩瀬の代官内山は翌一六年から名主ら村の有力百姓四人に鉄砲を各一挺ずつ預け置いている(享保二年「鉄砲証文」同文書)。
田野辺村
たのべむら
[現在地名]鹿島町田野辺
北浦東岸の台地上にあり、東は田谷村、北は林村(現大野村)。弘安大田文に「同宿内永江六丁八段三百歩」とある永江は当村の一部である。正和元年(一三一二)一二月二四日の坂戸神主占部常忠証文案(鹿島神宮文書)には「坂戸宮月次料御供田之事(中略)田野辺之内由張五段」と記され、坂戸神社の月次料御供田が村内にあった。当村は鹿島氏一族の根拠地でもあり、応安五年(一三七二)四月一七日の沙弥本光譲状写(同文書)には「鹿嶋郡南条沼尾宿内田野辺」とみえる。戦国末期頃まで田野辺氏の支配が継続したと推測されるが、天正一九年(一五九一)佐竹義宣の南下に伴い東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「百九十壱石仁斗 なかいの・たとへ」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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