日本大百科全書(ニッポニカ) 「甲子の宣」の意味・わかりやすい解説
甲子の宣
かっしのせん
664年(甲子の年、天智天皇3)に行われた内政改革。前年における白村江(はくすきのえ)の敗戦によって、朝鮮半島から全面的に撤退したのち、大陸からの侵攻という危機感と、対外政策の失敗を追及する諸豪族の動向とに対処して、664年2月、大皇弟大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武(てんむ)天皇)を政局の正面にたて、内政改革の諸施策を発令した。まず冠位十九階制を冠位二十六階制に改定して、下級官僚の階数を増加するとともに、諸氏を大氏、小氏、伴造(とものみやつこ)らに区分し、それぞれの氏上(うじのかみ)に、大刀(たち)、小刀(かたな)、干楯弓矢(たてゆみや)を賜って、諸氏を統率する象徴とした。また「其」の民部(かきべ)、家部(やかべ)を定めたが、この「其」を諸氏と解する見方と、特定のものをさす代名詞ではなく置き字と解する見方とがあるが、ここでは諸氏をさすと理解するのが妥当であろう。そして民部、家部設定の意義については諸説が対立しているが、現実に対処した私民的支配の復活であって、次の段階に期待する屈伸政策とみるよりも、広く残り続けた諸氏の私民的支配に、国家権力による統制の手を加え、その認定と登録とを行い、次の段階での収公の前提にしたと理解すべきであろう。この民部、家部は670年(天智天皇9)の庚午年籍(こうごねんじゃく)に登載され、672年(天武天皇1)の壬申(じんしん)の乱を経て、675年に部曲(かきべ)(民部)は収公され、家部は律令(りつりょう)制下の氏賤(うじのせん)、家人(けにん)になって存続した。そして甲子の宣による改革は、白村江敗戦後の危機を回避し、律令国家形成の一段階になった。
[野村忠夫]
『野村忠夫著『研究史大化の改新』増訂版(1978・吉川弘文館)』▽『原秀三郎著『日本古代国家史研究――大化改新論批判』(1980・東京大学出版会)』