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甲斐常治 かい つねはる

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

甲斐常治 かい-つねはる

?-1459 室町時代の武将。
代々,越前(えちぜん)守護代。幼少の守護斯波義健(しば-よしたけ)を後見して権勢をふるう。享徳元年(1452)義健が没すると,斯波義敏を守護にむかえた。やがて義敏と対立,戦いを有利にすすめるが,長禄(ちょうろく)3年8月12日没した。初名は将久。通称は八郎。

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朝日日本歴史人物事典の解説

甲斐常治

没年:長禄3.8.12(1459.9.8)
生年:生年不詳
室町時代の武将。斯波氏の家臣。将教の子。実名は将久。永享11(1439)年までに出家して美濃入道常治を名乗る。応永27(1420)年,父が没したあと越前(福井県)・遠江(静岡県)両国守護代となる。永享1年,将軍足利義教から管領就任を固辞する斯波義淳の説得を命じられた際,義淳に管領の器量はないといい放った(『満済准后日記』)ほど,主家をしのぐ権勢を誇っていた。同8年,2歳の斯波千代徳丸(義健)が家督を継ぐと常治の専権はいっそう強まり,ほかの重臣との対立も生じるようになる。文安4(1447)年ごろには,反甲斐派の斯波家臣が斯波氏庶流の持種と結んで常治に対抗している。享徳1(1452)年義健が子のないまま没すると,持種の子義敏がその跡を継ぎ,康正2(1456)年幕府に常治の専横を訴えた。これにより両派の対立は再び表面化し,長禄2(1458)年,ついに越前一国を舞台とする合戦に発展した。「主従の合戦未曾有の次第なり」(『大乗院寺社雑事記』)といわれたこの合戦は,主家をさしおいて独自の分国支配を推し進めようとした甲斐氏に対する国人の反撃であった。戦いは初め義敏派の堀江氏らが有利に立ったが,翌年3月に常治は幕府の支持をとりつけ,8月11日の合戦で甲斐方の勝利が確定した。しかし,その翌日常治は京都で没したものと思われ,以後ライバル朝倉氏の台頭を許すことになる。東福寺の僧太極は「天の罰する所なり」と,日記『碧山日録』に記している。<参考文献>鈴木良一『応仁の乱』

(河村昭一)

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世界大百科事典 第2版の解説

かいじょうち【甲斐常治】

?‐1459(長禄3)
室町期の越前国守護代。甲斐祐徳(将教)の息。実名は将久。永享年間(1429‐41)に出家して常治と改名する。越前守護斯波氏5代義郷の没後,幼少の息千代徳丸(義健)を後見し,十数年間専権を振るう。義健没後,斯波氏の後継をめぐり守護斯波義敏と対立。1459年織田,二宮,朝倉ら有力土豪を語らい,義敏と戦ってこれに勝利するが,直後病没した。応仁の乱前夜,守護代層の台頭を代表する人物である。【水藤 真】

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