男衾郡
おぶすまぐん
「和名抄」にみえ、訓は東急本に「乎夫須万」、名博本に「ヲフスマ」とある。荒川の左岸に位置し、江戸時代の郡境は、北は榛沢郡、東は大里郡、西は秩父郡、南は比企郡に接し、現在の比企郡小川町、大里郡江南町・川本町・寄居町の一部にあたる。なお古代の郡域のうち南西部は中世以降比企郡に編入されたとみられる。
〔古代〕
「和名抄」高山寺本は榎津・
倉・多留(東急本は多笛)・川面(東急本は川原)・幡(東急本は幡々)・大山・中村の七郷を記し、東急本はさらに郡家郷を載せているが、平城宮跡出土木簡に「武蔵国男衾郡余戸里大贄
一斗 天平十八年十一月」と書かれたものがあり、奈良時代には余戸里があった。同じ地点から出土した別の木簡には「武蔵国男衾郡川面郷大贄一斗鮒背割天平十八年十一月」とあり、川面郷がみえる。また正倉院に伝来する白布に「武蔵国男衾郡
倉郷笠原里飛鳥部虫麻呂調布一端 天平六年十一月」と墨書されたものがある。
平安時代の郡司として壬生吉志福正が有名である。承和八年(八四一)五月七日の太政官符(類聚三代格)によれば、「男衾郡榎津郷戸主外従八位上壬生吉志福正」が、二人の息子(一九歳と一三歳)の終身納めるべき中男作物(合せて紙二四〇張)と調庸物(合せて布八〇端四丈二尺)を一括納入することを申請して太政官から許可されている。さらに福正は四年後の同一二年に私財をもって、同二年以来焼亡していた武蔵国分寺(現東京都国分寺市)の七重塔の再建を言上して許されている(「続日本後紀」同年三月二三日条)。このとき福正は「前男衾郡大領外従八位上」と記されており、男衾郡の郡司大領経験者であったことがわかる。壬生吉志は六世紀末頃に北武蔵に移住してきた渡来人の集団といわれ、男衾郡では荒川右岸に面した段丘上に七世紀中頃から八世紀初頭に築造された胴張りの横穴式石室をもつ鹿島古墳群(川本町)とのかかわりが論じられている。古墳群のすぐ南には、平安時代の小金銅仏を出土したと伝えられる諦光寺廃寺(同上)もあり、福正の一族は代々男衾郡に勢力を張り、莫大な財力を蓄えたものと思われる。
〔中世〕
秩父氏を出自とする重能は男衾郡畠山(現川本町)を名字の地として畠山氏を名乗り、畠山庄司とも称された(尊卑分脈)。子の重忠は代表的な武蔵武士として知られるが、同地の畠山館跡にはその墓所と伝える五輪塔が伝存する。重忠に従って二俣河(現神奈川県横浜市旭区)で討死した本田次郎近常は当郡本田郷(現川本町)の在地領主で、居館跡とされる伝承地には土塁の一部が残る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 