精選版 日本国語大辞典 「正倉院」の意味・読み・例文・類語
しょうそう‐いん シャウサウヰン【正倉院】
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奈良時代においては主要な倉庫のことを正倉といい、その幾棟かが集まっている一郭を正倉院とよんだ。正倉は中央・地方の諸官庁や寺院に設置され、正税(しょうぜい)すなわち租税として国に納められた稲や穀物、その他の財物を収納していたが、時代が下るとそれらの正倉のすべてが滅んでしまった。現存するものは、もと官寺であった奈良の東大寺に付属していた正倉1棟のみで、今日、正倉院といえばこれをさし、固有名詞化している。東大寺大仏殿の北西に位置し、いまは白壁に囲まれた木立の中に東・西新宝庫、聖語蔵(しょうごぞう)、持仏堂などとともにある。
なお、この正倉とそこに納められた多数の宝物の管理は、当初から朝廷の監督のもとに東大寺が行ってきたが、1875年(明治8)政府が直接行うことになり、内務省、農商務省を経て宮内省が管理し、現在は宮内庁の所管で、奈良市雑司(ぞうし)町にある。
[木村法光]
この正倉は、天平(てんぴょう)時代の著名な代表的倉庫建築だが、その創建年時について直接書き伝えた資料はない。しかし宝物の移遷や蔵出しの記録などから756年(天平勝宝8)10月、遅くとも759年(天平宝字3)3月以前にできていたことは確実視されている。
檜(ひのき)造り、屋根は単層、寄棟本瓦葺(よせむねほんかわらぶ)きで、高床式校倉(あぜくら)の正倉院宝庫は東面し、南北に長く建っている。東西に並ぶ10列、南北に4列の自然石の上に束柱を立て、宝庫を支えている。倉は間口約33メートル、奥行約9.4メートル、床下約2.7メートル、総高約14.2メートルの巨大な建物である。
倉は北倉、中倉、南倉の3室に仕切られている。北倉、南倉の外壁(四周)は大きな三角材を井桁(いげた)に組んだ校倉造、中倉はその前後の外壁を厚い板で囲った板倉(いたぐら)である。なお中倉の左、右の壁(北倉、南倉との隔壁)は北倉、南倉の外壁を共有している。各倉とも東側中央に一つの出入口をもち、内部は2階造りとなっている。さらに各倉とも天井裏へ通じる長い梯子(はしご)がかけられている。
以上のようにこの宝庫は、校倉と板倉とを1棟にまとめた特殊構造であることから、この姿が創建当初のままのものであるのか、あるいは中倉はのちに継ぎ足されたものであるのかが専門家の間で議論されてきた。しかしまだ決着をみていない。なお宝物は、種々の災害から守るため、いまは鉄筋コンクリート造りで、空気調和装置が完備した東西両新宝庫に分納してある。
[木村法光]
現在正倉院に伝わる宝物群約9000点は、大別すると次の二つの系統に分類できる。(1)756年から758年に至る間に光明(こうみょう)皇太后が東大寺盧遮那仏(るしゃなぶつ)(大仏)に献納した宝物類と、これに準ずるいくつかの品々。(2)これより約200年後の950年(天暦4)、東大寺羂索院(けんさくいん)の双倉(そうそう)から移し納められた宝物類である。
第一の宝物類とは、756年6月21日、先帝聖武(しょうむ)天皇の死去後四十九日の忌み日にあたり、光明皇太后が天皇の冥福(めいふく)を祈念して、その遺愛品ならびに宮廷で間近に置かれていた品々約六百数十点を盧遮那仏に献じたものであり、皇太后の愛情満ちあふれる願文と、献納品目を列記する献物帳(けんもつちょう)(国家珍宝帳(こっかちんぽうちょう))が添えられている。ほかに同日献納された60種の薬物、同年7月26日欧陽詢真跡書屏風(おうようじゅんしんせきしょびょうぶ)以下約80点、758年6月1日王羲之(おうぎし)・王献之(おうけんし)父子の真跡書1巻、同年10月1日皇太后の父藤原不比等(ふひと)追善のため、その真跡書屏風2帖(ちょう)を献納。これらはそれぞれ先の「国家珍宝帳」と同様、献納趣旨と品目を明らかにした献物帳が添えられていて、もっとも由緒正しい品々で、これらは「帳内御物(ちょうないぎょぶつ)」とよぶこともあり、正倉院宝物の中心的存在をなしている。ただしそれらのすべてがいまに伝わったわけではなく、平安時代初期に幾度かの出蔵があり、大小王真跡書(だいしょうおうしんせきしょ)および藤原公真跡屏風については、その献物帳が残るのみである。また他に出蔵されたもののうち、少数のものは代替品が納められた事実もあった。以上のものはその献納後まもなく北倉に納められ今日に至ったものである。
第二の宝物群は、平安中期の950年6月、諸寺を監督する僧綱(そうごう)の封によって管理されていた東大寺羂索院の双倉が朽損のため、正倉院宝庫の南倉に移された多数の仏具や什器(じゅうき)類である。これらの宝物群の数量や種類は前の献納宝物に比べてはるかに多く、また個々の宝物には銘文や付け札を有するものが多数みいだされるので、その由緒、来歴が知られる。そのうち年紀銘のあるおもなものをあげると、大仏開眼会(かいげんえ)関係の品々、聖武天皇の生母一周忌斎会、同天皇の死去時・葬儀・一周忌斎会の用物など東大寺の法要関係の品々。称徳(しょうとく)天皇が東大寺行幸に際して献入した品々など、ほとんどが奈良時代のものである。年紀銘はもたないが、その所属を示す銘を記したものについては、東大寺をはじめ、大仏殿、羂索堂、吉祥(きちじょう)堂、千手堂、東塔、東小塔などがあり、また銘記のないものも、その品質・形状などにより、先に記した品々と密接な関係にあることが裏づけられる。
このように正倉院宝物はそのほとんどが7、8世紀の遺品であり、その由緒と年代が明白なものが中心をなし、他のほとんどがそれらと共存関係にあるところにその特質があり、文化史的価値が高く評価されるゆえんである。
[木村法光]
北倉に納められた光明皇太后奉献の宝物の管理保管は、当初から厳重なものであった。つまり、北倉の開閉と宝物の出蔵とについては、天皇の勅旨または勅許を必要とし、最初のころは中務(なかつかさ)省の監物(けんもつ)(物品出納を監察する被官)の封であって、大蔵省の正倉の施封と同じ扱いであったが、鎌倉時代には、派遣せられた勅使の封にかわり、室町時代以降からは封の形式がさらに荘重になり、天皇花押(かおう)の封紙(ふうし)、あるいは親署のある封紙になり今日に及んでいる。これがいわゆる勅封(ちょくふう)の制度であって、北倉は古来「勅封倉(ちょくふうそう)」とよばれた。
次に平安中期、羂索院双倉から移されてきた宝物を納める南倉は、もと僧綱の封により管理されていた宝物類があったため、この形式を受け継いで僧綱封(綱封(こうふう)ともいう)となり、元のごとく「綱封倉」とよんだ。このあと平安末期に南倉宝物中の重要なものが中倉に分納され、やがて中倉は北倉と同じく勅封倉とされた。ところが明治時代に宝庫が直接国家の管理下に移されたのち、南倉も同じく勅封倉に改められ、現在は3倉とも勅封倉として毎年秋季の宝庫開閉に勅使(現在は侍従)立会いのもと、天皇自署の封紙を解き、あるいは付される。現在勅封という管理方式は正倉院宝庫にのみ生き、長い伝統を保っているのである。
次に宝物の管理上、勅封とあわせ考えねばならないものに「曝涼(ばくりょう)」(虫干し)がある。これは風通しをし虫干しをすることで、多湿のわが国では仏像、経典、一般図書、兵器武具の類を毎年、あるいは少なくとも6年に一度曝涼することが『延喜式(えんぎしき)』にみえ、その実例は奈良時代にあった。正倉院宝物について「曝涼」の語が初めて記録に出るのは787年(延暦6)のことであるが、宝物点検に伴う実質的曝涼は、宝物献納後しばらくたったころから行われている。しかし平安初期の数回以外は、法皇や高官の宝物拝観、宝庫の修理や宝物点検など必要のたびごとに開封され、曝涼点検を毎年1回行うようになるのは1883年(明治16)以降であり、これまで春や夏に行われたこともあったが、だいたいは秋冷の候に行われている。ただし、1963年(昭和38)以降は空気調和装置を施した新宝庫に収納され、曝涼の必要はなくなり、その名称も「秋期定例開封」と改められた。そしてこの期間中に宝物の点検をはじめ、宝物の特別調査や防虫剤の入れ替えなどがおもな行事として行われている。また、第二次世界大戦後には、この時期の10月下旬から11月上旬にかけて、奈良国立博物館で特別展「正倉院展」の開催が恒例となり、古都の秋の年中行事の一つになっている。
一方、宝庫や宝物に対しての種々の保護対策も古くから行われてきた。宝庫に対しては、創建以来1200余年の間、大小幾多の修理が加えられてきた。記録に残る最初のものである1031年(長元4)の修理以後十数度を数えるが、1913年(大正2)には正倉を解体して大修理が行われた。宝物については、元禄(げんろく)(1688~1704)・天保(てんぽう)(1830~44)年間の一部の宝物修理に始まり、明治年間には数多くの宝物に修理の手が加えられ、宝物本来の美しさ、絢爛(けんらん)さを支え、古代の文化をいまに具体的に伝えることに大いに貢献した。
修理と並ぶ重要な事業は宝物の整理である。まず天保期に始まる古文書の整理は、穂井田忠友(ほいだただとも)による『正倉院古文書正集(こもんじょせいしゅう)』、それに続いて明治期の『続修(ぞくしゅう)正倉院古文書』以下あわせて660巻余を完成した。同じ明治期には黒川真頼(くろかわまより)らによる宝物と献物帳との比較考証も行われ、1914年からは膨大な量の染織品の整理が始まり今日に至っているが、整理された裂(きれ)類は断片を含め約18万点を数えるといわれる。そしてこの整理が始まって半世紀を超えたいま、なおその量の何割かは未整理であり、これらの整理がひととおり終わるまでには、まだ少なくとも十数年の年月が必要であるといわれている。
[木村法光]
先に正倉院宝物の点数は約9000点と記したが、これはあくまでも一つの数え方であって、別の数え方をもってすれば何万点、何十万点にもなりかねない。たとえば、古文書は、東南院文書を含めると780余巻になり、そこには一万数千点の官公私文書を含んでおり、またガラス玉類は完全なものだけで約7万個に達し、染織品に至っては先にも記したとおりである。
正倉院宝物は数量が多いだけに、その種類もすこぶる豊富かつ多岐にわたっている。たとえば用途別に分類してみると、図書記録文書、服飾・調度、楽器・遊戯具、薬物、武器・武具、仏具など当代の仏教文化に結び付く生活全般にわたっている。そしてそれらを形づくっている素材や製作技法にしても、木竹甲角品から漆工、金工、陶器、ガラスと玉石器、染織、絵画、彫刻、書跡と、その範囲は美術工芸のすべての分野にわたっており、またこれらのなかには特異な技法もあり、現代の技術をもってしても及びえない高度な水準のものも少なからずある。以下その主要なものを簡単にみてみよう。
まず、木竹甲角品のうち、木工技術については、指物、挽物(ひきもの)、曲物(まげもの)、刳物(くりもの)など現代のものに勝るとも劣らないまでに発達しており、その工作についても複雑入念な細工が行われている。その素材も杉、檜など国内産のものだけでなく、外国産の紫檀(したん)、黒檀(こくたん)、白檀(びゃくだん)などの貴重な素材を駆使して緻密(ちみつ)な木画や螺鈿(らでん)の装飾を施している。螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわ)、木画紫檀棊局(もくがしたんのききょく)などはその代表的作例である。竹工品には筆管や飾り箱があり、この竹の表面には天然の斑竹文(はんちくもん)に模して斑文がつけられた仮斑竹(げはんちく)があり、いまはその手法さえ伝わっていない。甲角品には鹿角(ろっかく)、貝殻をはじめ、外来の象牙(ぞうげ)、犀角(さいかく)、鯨鬚(げいしゅ)、鯨骨(げいこつ)、玳瑁(たいまい)(べっこう)などがあり、とくに象牙を紅・紺に染め、撥彫(はねぼ)りをして文様を表す撥鏤(ばちる)の手法は後代に絶えて久しい特殊な技法といえよう。
漆工品について、その髹漆(きゅうしつ)(下地から塗りの工程)の技法は現代のそれとも変わらない。加飾の方法も、単に金銀泥によって文様をつけるものから、金・銀の薄板を文様に切り透かし、漆塗膜に塗り込め、研ぎ出しあるいは剥脱(はくだつ)して文様表現をする平脱(へいだつ)(平文(ひょうもん))の手法がある。この金銀板にはすばらしい毛彫(けぼ)りが施されている。また後世の蒔絵(まきえ)の源流といわれる末金鏤(まっきんる)の貴重な遺品もある。金銀平文琴(きんぎんひょうもんきん)、漆胡瓶(ぬりのこへい)(平脱)、金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんかざりのからたち)(末金鏤)などがそれである。
金工品は、鋳造、鍛造、彫金や象眼(ぞうがん)、鍍金(ときん)、ろくろなどあらゆる技術を駆使して成形加飾され、またその用途別範囲も多岐にわたるものである。その材料は金、銀、銅、錫(すず)、鉄、佐波理(さはり)、白銅(はくどう)、黄銅(おうどう)(真鍮(しんちゅう))などと種類は多く、金銅や佐波理製品はとくに多い。佐波理製の皿や盤類は1126口を数える。また多数の宝飾鏡(ほうしょくきょう)や銀壺(ぎんこ)、金銀花盤(きんぎんかばん)や銀薫炉(ぎんのくんろ)などは優品として名高い。
陶器は、須恵器(すえき)11点と彩釉(さいゆう)陶器の57点が伝えられ、地上に伝世した世界最古のものとして貴重な存在である。そして彩釉陶器は俗に「正倉院三彩(さんさい)」「奈良三彩」とよばれ、最近の調査の結果によってすべて国産品であることが確認されている。
ガラスと玉石器については、ガラス器は白瑠璃碗(はくるりのわん)のほか紺瑠璃坏(こんるりのつき)など容器類6点と七宝鏡(しっぽうきょう)、魚形(うおがた)、小尺(しょうしゃく)、軸端(じくたん)、そのほか万をもって数えるガラス玉があり、そのあるものはササン朝ペルシアのもの、またあるものは中国製であろうとされるが、一方、魚形、小尺、ガラス玉などはわが国で製作されたと推定され、それを裏づける文書も伝わっている。また玉石製品もきわめて多く、楽器の玉尺八(ぎょくしゃくはち)や彫石横笛(ちょうせきおうてき)をはじめ、合子(ごうす)や坏(さかずき)、誦数(じゅず)、軸端、装玉類に至っては無数というほかない。
染織品は、世に「正倉院裂(しょうそういんぎれ)」として知られ、奈良朝の染織工芸の全貌(ぜんぼう)が見渡せるものといえよう。同時にまた7、8世紀のアジア全域の染織工芸を知るうえでもかけがえのないものである。織物として錦(にしき)、綾(あや)、羅(ら)、紗(しゃ)の紋織物や、絹、絁(あしぎぬ)、布類の平織物がある。染色加工の種類には﨟纈(ろうけち)・きょう纈(きょうけち)・纐纈(こうけち)とよばれる三纈があり、また刺しゅう、摺文(すりもん)、彩絵などを施すものもある。ほかに組紐(くみひも)や羊毛を縮絨(しゅくじゅう)加工したフェルト類も多数伝えられている。
彫刻、絵画については、彫刻は、寺院の供養会などに際して演じられた伎楽(ぎがく)の面171面がその代表としてあげられる。木彫が135面と乾漆(かんしつ)が36面ある。絵画作品は、やはり『鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)』に代表されようが、麻布に描かれた菩薩(ぼさつ)像や山水図、琵琶(びわ)や阮咸(げんかん)などの撥面(ばちめん)に極彩色で描かれた細密画、金・銀泥や各種顔料を膠(にかわ)で溶き描かれた装飾画、顔料を油で練って描いた密陀絵(みつだえ)や、膠彩色の上に油のかけられた油色(ゆしょく)など多種多彩で、奈良時代の絵画水準の高さを物語っている。
最後に書跡では、聖武天皇自筆の雑集(ざっしゅう)、光明皇后自筆の楽毅論(がっきろん)などの書巻類をはじめ、正倉院文書中には良弁(ろうべん)、鑑真(がんじん)、道鏡(どうきょう)以下の有名無名の多くの人々の筆跡が残されており、いずれも唐代書法の強い影響を受けている。また702年(大宝2)日本最古の戸籍や、中央官庁の間で授受された公文書、写経生の日常生活のようすを如実に伝える文書などが多数ある。
なお、美術工芸品とは性格を異にするが、献物帳(種々薬帳)とともに大仏に献納された薬物は60種に及び、古櫃(こひつ)21合に納められていた。それらは必要に応じて一般の病人にも分かち与えるべきことがその願文に書かれてあり、事実、平安の中期まで頻繁に出蔵され使用に供された。しかしいまなおそのうちの39種が残されている。これらの薬物は中国その他の地から舶来した貴重なものであり、いまでも生薬(しょうやく)として効力をもっているといわれる。
[木村法光]
以上にみてきたように、正倉院宝物の特質は、その由来や年代が明らかなこと、保存が良好であること、その種類が多岐多様であること、数量が多いこと、優品が多いことなど考えられるが、さらに大きな特質としてその広がりが世界的であることに注目しなければならない。まず宝物そのものがペルシア、中国、朝鮮などからもたらされたものが少なからずあること。次に各種器物に用いられている材質のなかには、小アジア、ペルシア、中央アジア、インド、東南アジア、中国など広範な地域に産するものが含まれている。意匠、文様においては、中国大陸をはじめインド、ペルシア、東ローマなど外来的要素が色濃く、とくに西方要素が多く取り入れられている。それは中国で製作されたものについてもいえることで、盛唐文化の一特色でもある。数千年来培ってきた自国文化の伝統のうえに、さらにインド、ペルシア、ビザンティンなどの諸文明を積極的に摂取融合し、8世紀における華々しい世界的文化をつくりあげていたからにほかならない。これを直接間接に受け入れていたのがわが奈良朝であり、その文化である。
正倉院宝物はその結晶であるばかりでなく、その母胎となった盛唐文化ないしは全アジアの諸文明を凝集して今日に伝えるものであり、宝物の世界文化史上における重要な意義がここに認められるのであって、正倉院が単にわが国だけのものではなく、広く世界の宝庫とまで称される理由もここにある。
[木村法光]
『土井弘著『原色日本の美術4 正倉院』(1968・小学館)』▽『関根真隆著『名宝日本の美術4 正倉院』(1982・小学館)』▽『正倉院事務所編『正倉院宝物』全5巻(1960~64・朝日新聞社)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
東大寺大仏殿の西北、講堂跡を隔ててある。正倉とは倉庫のなかの主要なものをさし、その一画を正倉院という。奈良時代の官衙・寺院は正倉院を有するものが多かったが、すべてなくなり、現在は東大寺正倉院のみが存し、それが明治以後東大寺から皇室に移管され、今日の固有名詞化されるに至った。
建物は正面約三三メートル、奥行約九・四メートル、床下約二・七メートルの校倉造の二倉(北倉・南倉)と、その間をつなぐ形の板倉造の中倉からなり、内部は二階造、入口は各倉とも東側にある。建築年代は不明であるが、双倉北雑物出用帳記載の日付から、天平勝宝八年(七五六)か、おそくも天平宝字三年(七五九)以前と考えられる。「
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
奈良・平安時代の中央・地方の官衙や大寺院には重要物品を納める倉庫(正倉・正蔵)が設置され,その正倉が幾棟か集まった一郭を正倉院と称した。現在では東大寺正倉院内の正倉1棟のみが残り,固有名詞として用いられるようになった。この正倉(国宝)は檜造(ひのきづくり),寄棟本瓦葺の高床式建築で,南北に長く,1棟を3区分してそれぞれ北倉(ほくそう)・中倉・南倉とよぶ。北倉と南倉は三角材を井桁(いげた)に組んだ校倉(あぜくら)造で,中倉は厚板をはめた板倉造とする。築造の記録はないが,759年(天平宝字3)以前には存在していた。756年(天平勝宝8)に光明皇太后が聖武太上天皇の遺愛品などを東大寺盧舎那仏(るしゃなぶつ)に献納し,これが正倉に収蔵されて以来,勅封(ちょくふう)の倉として管理された。その後1200年余にわたり正倉院は東大寺によって管理されたが,1875年(明治8)国に移管され,現在は宮内庁の所管となっている。間口33m,奥行9.4m,総高14m,床下高2.7m。現在宝物は正倉から空調設備の整ったコンクリート造の新宝庫に移納されている。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
(天野幸弘 朝日新聞記者 / 今井邦彦 朝日新聞記者 / 2007年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
…国際色豊かな時代の特性を反映して,螺鈿,平脱などの象嵌技法を自在に駆使した華麗な作品をぞくぞくと生み出した。西方に起源がもとめられる琵琶,箜篌(くご),阮咸(げんかん)などの楽器や鏡には,螺鈿をはじめ琥珀(こはく),水晶,瑪瑙(めのう)などのさまざまな貴石が随所にちりばめられ,豪奢な雰囲気をつくり出しており,これらは正倉院の伝世品にみることができる。しかしこれらとは別に,器体に加飾をいっさいほどこさず,漆を塗りほどこしただけの無文漆器が併行してつくられていたことは刮目(かつもく)に値する。…
…中央官庁では中務省所管の内匠寮(たくみのりよう)でも錦や綾や羅が生産されていたが,それらは内匠寮の職掌から考えれば衣料以外の装飾用裂地等であったとみられる。以上のような生産組織で作られた織物の内容は,正倉院の伝世品によってほぼ概要を知ることができる。織手
[正倉院の織物]
正倉院の織物の技術上,意匠上の多様さには驚くべきものがある。…
…上記のほか,1959年慶州松林寺磚塔(せんとう)の中から黄金の厨子に入ったやや黄味を帯びる緑色のコップ形の器が発見された。この器は側面に正倉院蔵の紺色ガラス坏と同様,同色のガラスの環が溶着されており,内部には緑色小型の舎利瓶が入っていた。コップの材質は明確ではないが,舎利瓶は鉛ガラス製である。…
…
[教団の建築]
寺院の教団としての財政基礎が,個々の僧の乞食行によらず寄進された荘園領経営によることになると,管理機構が大きくなり,政所,倉庫が設けられる(政所院)。当然,施入物,什物,資財の倉や監理所(正倉院)も置かれ,仏寺機構は官衙と類似する。食作法や炊事の食堂院,清浄のための浴室(温室)や厠(かわや),法衣や建築物の維持管理,仏像仏画の製作や経典書写の作業所,花果蔬菜の苑院や花園院,雇民や奴婢の賤院など,寺地と施設を備えるようになった。…
…この時代は,染色だけでなく,多くの器物や道具は官営工房で専門的につくられたから,その技術はいっそう向上し,また中国唐からの新しい技術の指導,習得も容易であったため,その進歩は著しかったと考えられる。その具体的な例を法隆寺や正倉院に保存されてきた遺品に見ることができる。正倉院御物のなかで染織品に関するものは大略次の四つに分けられる。…
…また薬師寺東塔水煙は,透彫で天人の舞う姿を表し,ことに放射状に翻るその天衣の美しさは特筆すべきものである。漆工では橘夫人厨子や正倉院の文欟木厨子(天武天皇より伝世という)がある(厨子)。染織では観修寺旧蔵の《刺繡釈迦如来説法図》(奈良国立博物館)がある。…
…
[中国,ベトナム,朝鮮]
すでに唐代の中国で前記3種の広義の琵琶が形を整え(その流行は白楽天の詩《琵琶行》などで裏付けられる),それらが周辺諸国に伝えられた。奈良の正倉院に保存されている4弦の曲頸琵琶と5弦の直頸琵琶がそのなごりである。曲頸琵琶は主として管絃合奏の中で旋律の節目ごとに分散重音を奏する拍節表示楽器として奏され,対照的に直頸琵琶は声楽曲の伴奏をし,持続低音,句読法的楽句区分,リズム,旋律を奏するのに使われたと推定することができる。…
※「正倉院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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送り状。船荷証券,海上保険証券などとともに重要な船積み書類の一つで,売買契約の条件を履行したことを売主が買主に証明した書類。取引貨物の明細書ならびに計算書で,手形金額,保険価額算定の基礎となり,輸入貨...
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