畔村
あぜむら
[現在地名]甲府市住吉一―五丁目・住吉本町・南口町
蓬沢村の西にある。中道往還がほぼ南北に通り、魚町街道が合流する。甲府盆地中央部の低地氾濫原に位置し、盆地の水難場所の一つに数えられる。「一蓮寺過去帳」には永享(一四二九―四一)頃と推定される二月九日供養の以阿弥陀仏に「畔村」、永正(一五〇四―二一)頃供養の光一房に「アセ村」の注記がある。永禄一一年(一五六八)六月二八日には畔村番匠善三郎に対し上様御奉公(躑躅が崎館普請か)を勤めた代りに家一間分の普請役が免除された(「武田家印判状」加賀美正孝家文書)。「武田家日坏帳」には、元亀二年(一五七一)一一月二〇日逆修供養を行った玉窓理公禅尼に「中郡アセムラ加賀美七郎右衛門内方」と注記される。天正一〇年(一五八二)八月一九日および翌一一年四月一九日には住吉大明神領として畔村三〇〇文の地が安堵された(「徳川家康印判状写」甲陽随筆など)。
畔
村
あだこむら
[現在地名]鳥羽市畔蛸町
的矢湾北岸にあり、東は相差村、西は千賀村に接する。だんだらぼし遺跡からは縄文土器片と石錘を出土し、走り下古墳は円墳で石室を残している。「神鳳鈔」には「畔蛸御厨」、「外宮神領目録」には「羽畔蛸御厨」とある。
近世を通じて鳥羽藩領で、答志郡に属する。享保一一年(一七二六)の村差出帳(徳川林政史蔵)によれば、高一〇一・四七石のうち水主米高六・九七石が寛文四年(一六六四)から定引とあり、反畝不明の無地が三・五〇八石あった。おもな小物成には水主米六・八〇二石と浦役銀一六匁がある。献上干鰤は五月中旬から六月中旬までに、初鰹二本、洗ふのり、鯔なども上納していた。淡州沼嶋浦(現兵庫県南淡町)より「鯖魚焼火夜釣漁船」が来て毎年五月上旬から八月中旬まで当村の沖で夜釣をするが、その時は運上として釣船一艘につき金一分と羽書四匁を受取った。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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