デジタル大辞泉 「畔田翠山」の意味・読み・例文・類語 くろだ‐すいざん【畔田翠山】 [1792~1859]江戸末期の博物学者。紀伊の人。名は伴存。通称十兵衛。別号、翠嶽・紫藤園。諸国を巡って植物・魚介を採集し図録にした。著「草木志」「水族志」「古名録」など。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
精選版 日本国語大辞典 「畔田翠山」の意味・読み・例文・類語 くろだ‐すいざん【畔田翠山】 江戸末期の本草学者。名は伴存(ともあり)。通称十兵衛。別号紫藤園。紀伊(和歌山県)の人。本居大平に国学・歌学を、小原桃洞に本草学を学び、紀伊藩医となる。著に「金岳草木志」「野山草木通志」「古名録」など。寛政四~安政六年(一七九二‐一八五九) 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
朝日日本歴史人物事典 「畔田翠山」の解説 畔田翠山 没年:安政6.6.18(1859.7.17) 生年:寛政4.3(1792) 江戸後期の本草学者。姓は源,名は伴存,通称は十兵衛(5代),号は翠山,翠岳,紫藤園,翠嶺軒。和歌山藩湊南仲間(和歌山市)生まれ。本草学を同藩の小原桃洞に,国学歌学を本居大平に学んだ。俸禄20石の小身だったが,藩主徳川治宝に認められて医員として西浜御殿の花卉薬草の管理に当たる。居室の円窓書斎は書物,標本に満ち,採集行は加賀白山,越中立山など高山にもおよんだ。日本で最初の総合水産動物誌『水族志』をはじめ多くの著書があるが,『古名録』85巻は大和ことばを大切にした本草関係の異色の大作である。<参考文献>山口藤次郎『贈従五位畔田翠山伝』 (木村陽二郎) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「畔田翠山」の解説 畔田翠山 くろだ-すいざん 1792-1859 江戸時代後期の本草家。寛政4年3月生まれ。紀伊(きい)和歌山藩士。小原桃洞に本草学を,本居大平(もとおり-おおひら)に国学をまなび,藩医となり薬園を管理。諸国を遊歴して水陸の動植物を調査・採集し,日本最初の水産動物誌「水族志」をあらわした。安政6年6月18日死去。68歳。名は伴存(ともあり)。通称は十兵衛。別号に紫藤園など。著作に「白山草木志」「古名録」など。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例