本居大平(読み)モトオリオオヒラ

デジタル大辞泉 「本居大平」の意味・読み・例文・類語

もとおり‐おおひら〔もとをりおほひら〕【本居大平】

[1756~1833]江戸後期の国学者伊勢の人。号、藤垣内ふじのかきつ宣長に入門し、のち、その養子となる。紀州侯に仕え、宣長の学問を継承し、普及に努めた。著「古学要」「神楽歌新釈」「玉鉾百首解」など。

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精選版 日本国語大辞典 「本居大平」の意味・読み・例文・類語

もとおり‐おおひら【本居大平】

  1. 江戸後期の国学者。伊勢国(三重県)の人。本居宣長門人稲掛棟隆の子。通称、三四右衛門。号は藤垣内(ふじのかきつ)。宣長の養子となり本居家の名跡を継ぐ。紀州侯に仕えて国学を講じ、「紀伊続風土記」の編纂にあたった。国学の普及につとめ、「神楽歌新釈」「古学要」などの著作、他に多くの紀行文がある。宝暦六~天保四年(一七五六‐一八三三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「本居大平」の意味・わかりやすい解説

本居大平
もとおりおおひら
(1756―1833)

江戸後期の国学者、歌人。通称三四右衛門、藤垣内(ふじのかきつ)と号した。伊勢(いせ)松坂に豆腐商稲掛棟隆の子として生まれる。父も本居宣長(のりなが)の高弟。13歳で宣長に入門し、44歳で宣長の養子となる。宣長の実子春庭(はるにわ)が盲目であったため、宣長の死後47歳で家督を相続して紀州侯に仕え、和歌山に移住する。天保(てんぽう)4年9月11日78歳で没した。女婿内遠(うちとお)が本居家を嗣(つ)ぐ。研究も作歌も独創性を欠くが、温厚な人柄と親切な教授により、1000余名の門弟を擁し、宣長の学芸を継承してその普及に努めた。主要な門人に加納諸平(かのうもろひら)、近藤芳樹(よしき)、長沢伴雄(ともお)がいる。研究書に『神楽(かぐら)歌新釈』、歌文集に『稲葉集』『藤垣内文集』があり、『本居全集』『増補本居宣長全集』に収められている。

上野 理]

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朝日日本歴史人物事典 「本居大平」の解説

本居大平

没年:天保4.9.11(1833.10.23)
生年:宝暦6.2.17(1756.3.17)
江戸中・後期の国学者。旧姓稲掛氏。幼名常松,のち茂穂,重穂,大平。通称十蔵,十太,十介。伊勢国(三重県)松坂の豆腐商稲掛棟隆の子。本居宣長の養子となり,家督をうけたのちは,本居三四右衛門と称し,藤垣内翁と呼ばれた。13歳のとき,宣長に入門,以後,宣長の旅に随行するなど近仕した。寛政11(1799)年44歳で宣長の養子となり,宣長の死後,眼疾の本居春庭に代わって本居家を継ぐ。紀州(和歌山)藩主徳川治宝に仕え,文化5(1808)年『紀伊続風土記』選進の命を蒙り,6年には松坂を離れて,妻子を連れて和歌山に移住した。藩主に進講したり,門人の要請によって伊勢,松坂,京都に出向いて指導した。門人も1000人以上におよんだ。しかし学問的には特に卓抜な業績はなかった。曲亭馬琴が「人品良き人」(『羇旅漫録』)と評したように,その温厚篤実な人柄によって本居学派をまとめた。大平は長男,次男,3男を相次いで亡くし,3女藤子の婿の浜田鎌次郎を養子として,本居内遠として家を継がせた。

(飯倉洋一)

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百科事典マイペディア 「本居大平」の意味・わかりやすい解説

本居大平【もとおりおおひら】

江戸後期の国学者。旧姓は稲掛(いながけ)氏。号は藤垣内(ふじのかきつ)。伊勢の人。13歳で本居宣長(のりなが)の門に入り,44歳でその養子となる。宣長の祖述につとめ,宣長の実子春庭(はるにわ)の失明後は家督を継いだ。紀伊(きい)徳川家に仕え,侍講(じこう)などをつとめる。著書《古学要(こがくよう)》《玉鉾百首解(たまぼこひゃくしゅかい)》,歌集に《稲葉集(いなばしゅう)》など。→国学
→関連項目足代弘訓伊達千広

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改訂新版 世界大百科事典 「本居大平」の意味・わかりやすい解説

本居大平 (もとおりおおひら)
生没年:1756-1833(宝暦6-天保4)

江戸後期の国学者,歌人。伊勢松坂の人。稲掛棟隆の子で,十介茂穂といったが,宣長没後,本居家を継いで通称も三四右衛門と改める。雅号藤垣内(ふじのかきつ)。のち和歌山に移住し,紀州徳川家に出仕,侍講などを勤めた。門人1000余人を数え,化政期(1804-30)の国学界で随一の勢力を誇った。宣長の祖述につとめ,《古学要》《神楽歌新釈》などを著した。また歌集に《稲葉集》《藤垣内集》があり,古風,今風の両方に長じた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「本居大平」の意味・わかりやすい解説

本居大平
もとおりおおひら

[生]宝暦6(1756).2.17. 伊勢,松坂
[没]天保4(1833).9.11. 和歌山
江戸時代後期の国学者。旧姓は稲懸,幼名は常松,のちに十太,十介。通称は三四右衛門,号は藤垣内。 13歳のとき本居宣長の門に入り茂穂と称した。宣長に愛され,44歳でその養子となり,宣長の死後,失明した宣長の子春庭に代って家を継ぎ,紀伊藩に仕えて国学を講じた。近藤芳樹,加納諸平,中島広足,伊達千広など門人も多く,宣長学の普及に力を尽した。著書『古学要』 (1809成立) ,『神楽歌新釈』『万葉集合解』など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「本居大平」の解説

本居大平 もとおり-おおひら

1756-1833 江戸時代中期-後期の国学者。
宝暦6年2月17日生まれ。本居宣長(のりなが)に入門し,養子となって本居家をついだ。和歌山藩につかえ「紀伊(きい)続風土記」を編集。学派の発展につくし,門弟は千余人におよんだ。天保(てんぽう)4年9月11日死去。78歳。伊勢(いせ)(三重県)出身。本姓は稲掛(懸)。初名は茂穂。通称は十介,三四右衛門。号は藤垣内(ふじのかきつ)。著作に「古学要」など。

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367日誕生日大事典 「本居大平」の解説

本居大平 (もとおりおおひら)

生年月日:1756年2月17日
江戸時代中期;後期の国学者
1833年没

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