日本歴史地名大系 「登尾村」の解説 登尾村のぼりおむら 和歌山県:那賀郡打田町登尾村[現在地名]打田町登尾葛城(和泉)山脈の麓に位置し、村域の北部は山地。北東は西山田(にしやまだ)村、西は枇杷谷(びわだに)村。「続風土記」は「山に登る尾筋なるを以て登尾といふ」と記す。中世は池田(いけだ)庄に含まれた地で、枇杷谷村と併せて枇杷谷登尾村と称したらしく、慶長検地高目録はこの村名を記す。しかし「続風土記」は村内にある三大明神社が登尾・枇杷谷・豊田(とよだ)三村の産土神であることを記し、「此三箇村昔は糠尾田村といひ、又糠原村ともいひて一箇村にて人家所々に散在せしに、後世戸口多くなり分れて三箇村となりしといへり」と記し「撰集抄」巻八の「紀四郎泰成粉川利生事」に「紀州那賀の郡ぬかう田と云所」とみえる地にあてる。 登尾村のぼりおむら 京都府:舞鶴市志楽地区登尾村[現在地名]舞鶴市字登尾朝来(あせく)谷の最奥にある集落で、当村から杉山(すぎやま)村を経て松尾(まつのお)寺に、また塩汲(しおくみ)峠を経て若狭国山中(やまなか)村(現福井県大飯郡高浜町)に至る。中世志楽庄朝来村の地。地名は元亨三年(一三二三)七月二三日付の久太郎田畠等譲状(梅垣西浦文書)に「のほりをの大谷滝下」とみえるのが早い。慶長検地郷村帳には高二六三・八一石「登尾村」とみえ、土目録でも高は変化せず、内訳は田方二三七石余、畑方二五石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by