白倉村(読み)しらくらむら

日本歴史地名大系 「白倉村」の解説

白倉村
しらくらむら

[現在地名]甘楽町白倉

南西山麓より流出する白倉川が村央を北流、東は天引あまびき村・金井かない村など、西は小幡おばた村・上野うえの村・ささ村、南は多胡たご上日野かみひの(現藤岡市)と接し、北部を下仁田しもにた道が抜ける。「経俊卿記」に文応元年(一二六〇)八月二〇日評定として記す基兼朝臣と実伊法印の相論地に「上野国額部庄内小幡・白倉・新屋郷」があり、宝寿丸の領知として裁定されている。戦国期には関東管領山内上杉氏の「上州八家」の一つとされる白倉氏の居城があった。近世はおおむね小幡藩領。寛永一四年(一六三七)検地帳(甘楽町役場蔵)によると田五五町八反余・畑一一七町七反余・屋敷六町一反余。


白倉村
しらくらむら

[現在地名]朝日町白倉

朝日川の左岸山地にあり、南方一帯は立木たてき村。慶長五年(一六〇〇)の出羽合戦の舞台となり、万覚書(佐竹文書)に「白倉家共ニ夜ニ入候ハバ火をつけ、立木より是見、五郎右衛門皆々打連参、互ニ勝負を決、味方之者共拾七人討れ、敵も拾七人討とり申候得者、負陣と存皆々逃申候」とある。正保郷帳に白蔵村とあり、田方六四石余・畑方二四石余。慶安二年(一六四九)以降松山藩領。西五百川にしいもがわ八沼やつぬま組に属し、天明七年(一七八七)の松山藩左沢領村々大概書(松山町教育委員会蔵)によれば高九一石余、田三町余・畑二町余、用水出水溜井の水を引く。家数二六・人数八九、馬七。


白倉村
しらくらむら

[現在地名]瑞浪市日吉町ひよしちよう 白倉

本郷ほんごう村の北、日吉川支流白倉川沿いに開けた細長い谷にある。白蔵とも記される。日吉一二ヵ村の一で、元禄郷帳に「日吉白倉村」とみえ、三一〇石余、尾張藩領。中山道細久手ほそくて宿の助郷を勤める(臼井本元禄郷帳)。「濃州徇行記」によれば高三八六石余、田二三町九反余・畑六町八反余、家数八三・人数三七二、馬一七。承応年間(一六五二―五五)以降西方日吉川支流柄石がらいし川に沿った地区に枝郷柄石が開かれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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