甘楽郡(読み)かんらぐん

日本歴史地名大系 「甘楽郡」の解説

甘楽郡
かんらぐん

面積:三九五・八七平方キロ
妙義みようぎ町・下仁田しもにた町・南牧なんもく村・甘楽かんら

県の南西端に位置し、東は安中市・富岡市・多野たの吉井よしい町、西は長野県北佐久きたさく軽井沢かるいざわ町・佐久市・南佐久郡臼田うすだ町・佐久町、南は藤岡市・多野郡中里なかざと村・上野うえの村と接する。中央部を長野県境より流出するかぶら(西牧川)が東流し、同川沿いに国道二五四号が通る。下仁田までは上信電鉄が走る。東部を除く三方は標高一千二、三〇〇メートルの峰が連なり、北部には妙義山塊(最高峰一一〇四メートル)日暮ひぐれ(一二〇七・二メートル)など、西部には物見ものみ(一三七五・四メートル)荒船あらふね(一四二二・五メートル)、南部には烏帽子えぼし(一一八二メートル)杖植つえたて(一五二一メートル)などがそびえる。鏑川流域は南牧川と合する下仁田までは渓谷をなしているが、下流には河岸段丘が発達、甘楽町を北流し鏑川に富岡市東部で合する川下流には扇状地が開けている。郡名は「続日本紀」和銅四年(七一一)に「甘良郡」とみえ、「和名抄」国郡には「加牟良」と訓を付す。鏑川の谷には渡来人が多く住み、朝鮮半島南部から来た人々が多いと推定されている。そのため「から」の名が使われ、「かんら」とよばれるようになったと考えられている。

〔原始・古代〕

縄文時代の遺跡は郡下各町村でみられ、南牧村千原ちはらだいら遺跡・下仁田町西野牧の矢塚にしのまきのやづか遺跡・甘楽町秋畑あきはた栗の沢くりのさわ遺跡など、山間部から河岸段丘上、平地まで包蔵地は多いが、調査された遺跡は少ない。弥生時代の遺跡は少なく、石製模造品を出土した甘楽町のささ遺跡や下仁田町馬山まやまの鏑川崖の横穴墓地のほか、妙義町高田たかた川沿いにわずかにみられる程度である。古墳は下仁田町馬山を西限に、富岡市・甘楽町福島ふくしまにかけて濃密に分布している。旧馬山村と鏑川を挟んだ旧吉田よしだ村地区には、昭和九年(一九三四)の調査で約七〇基があり、その大半が横穴式石室をもつ円墳である。富岡市いちみやから七日市なのかいち、対岸の高瀬たかせにかけては前方後円墳を含む古墳の分布がみられる。妙義町では高田川流域に小規模円墳が分布する。甘楽町福島の笹森稲荷ささのもりいなり古墳と富岡市田篠の天王塚たじののてんのうづか古墳は、鏑川流域で特筆すべき規模の前方後円墳であり、この地域の盟主の墳墓と推定されている。前者は巨石使用の横穴式石室をもち、径九〇メートルの墳丘を有する流域最大の規模を示す。後者は五世紀初頭の様相を示す流域唯一のもので、竪穴式系の内部主体をもつものと推定されている。また甘楽町善慶寺ぜんけいじ付近にも小規模円墳が集中してみられ、同町白倉しらくらには舟形石棺を内部主体とし、製鏡・石製模造品・馬具類などを出土した大山鬼塚おおやまおにづか古墳がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報