白子寺家村(読み)しろこじけむら

日本歴史地名大系 「白子寺家村」の解説

白子寺家村
しろこじけむら

[現在地名]鈴鹿市白子しろこ一―四丁目・白子駅前しろこえきまえ白子本しろこほん町・白子町・寺家じけ一―八丁目・寺家町・東旭が丘ひがしあさひがおか一―六丁目・中旭が丘なかあさひがおか一―四丁目・南旭が丘みなみあさひがおか一―三丁目・磯山いそやま四丁目・東磯山ひがしいそやま三丁目

奄芸郡の北東、伊勢湾岸にある。慶安郷帳(明大刑博蔵)には「三千四百拾六石八斗 白子村」とあり、元禄郷帳では白子村と枝郷寺家村に分れる。宝暦三年(一七五三)の惣形売仲間元極控帳(寺尾家蔵)でも両村の庄屋は別記されているが、天保郷帳では白子寺家村となる。伊勢参宮街道に沿う細長い宿場町で港町でもあった。北に河曲かわわ江島えじま村が連なって、社会経済生活では一体をなし、白子本村がその中心であった。

朝野群載」所載の嘉承二年(一一〇七)一二月日の摂関家政所下文に稲生いのう社四至として「限東白子浜」と現れる。またこの地は平安時代古市ふるいちともいわれ、伊勢平氏地盤で、「保元物語」に「清盛に相従ふ人々には(中略)伊勢の国には古市の伊藤武者景綱(下略)」とあり、また「源平盛衰記」に「平家方より伊勢国の住人古市の白児党とて」とある。白子村には栗真くりまの地名があり、式内久留真くるま神社が所在し、栗真くるま庄の荘名の由来する所といわれ、御鎮座伝記紙背文書(神宮文庫蔵)の建武二年(一三三五)一二月二五日付公文注進状に「栗真庄内白子郷分并支包・福富・福永名等分米分銭員数事」とあり、「応仁別記」に応仁二年(一四六八)七月の「廿六日国司栗真庄ノウチ白子ヘ着陣」とあるなど、しばしば荘との関連で現れる。また中世港湾として栄えていたらしく、山科家がここを出入りする船から入津料を取っていたことは、「山科家礼記」文明一二年(一四八〇)一一月一五日の条に「近代不知行所々」のなかの一として「伊勢国栗真帆別津料」をあげている。戦国時代には、北方の若松わかまつ浦の新警固廃止に安濃あのう郡の長野氏が関係している(文明年間の「内宮引付」)ことから、おそらく同氏の勢力がここに及んでいたと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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