日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊勢型紙」の意味・わかりやすい解説
伊勢型紙
いせかたがみ
三重県鈴鹿(すずか)市の伊勢湾に面した白子(しろこ)町、寺家(じけ)町一帯には、早くから小紋(こもん)や中形(ちゅうがた)などに用いる染色用型紙の生産があり、伊勢型、白子型といって知られている。
染色業に隣接していない伊勢の型売商人は、全国の染色工房に型紙を供給することを念願していたが、江戸時代この地方が紀州徳川家の領するところとなり、紀州藩はこの型売商の全国的な行商に特別の庇護(ひご)を与えた。
紀州藩は、その行商荷物が特別のものであることを示すための絵符、武家並みの経費で行商できるよう駄賃帳を交付し、さらには関所を自由に通行できる「通り切手」やおのおのの売り物を定めた鑑札を交付した。一方、型売商人は仲間株を組織し、技術の他地方への流出防止、値くずれ防止やおのおのの売り場侵害を禁ずるなどの仲間定(なかまさだめ)を設けて結束を固め、全国に染色用型紙の独占的行商を試みている。そのうち、もっとも紀州家の権威によったのは1753年(宝暦3)の時点であるが、1801~03年(享和1~3)ごろから江戸店を設ける者が出、さすがの伊勢の型売(かたうり)株仲間(なかま)も、1826年(文政9)江戸出稼ぎ12株を公認せざるをえなくなった。しかしこのことは、染色地に隣接しない伊勢の人などが、直接消費地に店を開いたことになり、その芸術的技術的な向上に効果があった。おそらくこうして高められた技術は伊勢にも還元され、全国に行商されることによって、全国的に型染めの水準の向上に役だったものと考えられる。
今日なお伊勢型とよばせるのは、多くの型彫師の存在とともにかかる伝統によるものであろう。しかしながら、この地にいつごろから型紙技術がおこったのか、伝説的な話のみで明確でない。その歴史を語るに「形売共年数年暦控帳」の記載が引用され、その発現を平安時代とする話もあるが、諸遺例の検討や元禄(げんろく)年記の型紙2枚をもって最古の遺例とすることから、明和(めいわ)5年(1768)記述とされるこの文書の1000年をさかのぼった記述は、にわかには信じがたい。
[杉原信彦]
『中田四朗著『伊勢型紙の研究』(1970・伊勢型紙の歴史刊行会)』▽『杉原信彦著『伊勢型紙 伝統工芸染織篇 10』(1974・衣生活研究会)』