白子村
しらこむら
[現在地名]千倉町白子、丸山町白子
現千倉町の東端から現丸山町にかけての海岸部に位置する。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高四九六石余、うち田方三〇一石余。里見氏給人領。寛永五年(一六二八)ないし同一〇年に旗本大久保幸信に与えられた(「寛政重修諸家譜」など)。正保郷帳では田高三六八石余・畑高一一三石余で同家領。以後同家領として続き、天保一三年(一八四二)村高のうち二一一石余が武蔵忍藩領、三二八石余が旗本土岐領となるが、翌年三二八石余も忍藩領となり、嘉永六年(一八五三)まで続く(天保一四年忍藩領郷村高帳・房陽郡郷考など)。旧高旧領取調帳では上野前橋藩領と旗本津田領。「伊能忠敬測量日記」によると享和元年(一八〇一)には、村高四八二石余のうち八石余は海高、家数二七二・人数一千四二七。
白子村
しろこむら
[現在地名]天栄村白子
飯豊村の西、釈迦堂川(広戸川)上流北岸の河岸段丘に立地。村名は広戸川の氾濫による白色土に由来すると伝える。志古山の志古山遺跡から官衙風建物跡群と「広門斗」の墨書がある土器が出土し、古代の磐瀬郡広門郷(和名抄)にかかわる地方官衙遺跡とみられる。天文五年(一五三六)一〇月七日の二階堂続義知行充行状(白河古事考)に「新城・白子百貫文之所」とみえ、喜連川五月女坂合戦での功を賞し石井上総に宛行われている。
白子村
しらこむら
[現在地名]飯能市白子
小瀬戸村の北に位置し、高麗領に属した(風土記稿)。東は横手村(現日高市)、西は平戸村、北は権現堂村(現毛呂山町)。横手村・当村・平戸村をつないで秩父往還(江戸秩父道)が通る。天文一二年(一五四三)七月一日の山内上杉氏家臣大石道俊(定久)判物の包紙(長念寺文書)に「白子村」とみえ、当地長念寺へ年貢の納入を命じている。定久は天文一五年の河越合戦で北条氏に敗れ、北条氏照を養子として滝山城(現東京都八王子市)を譲った。これにより当地域は北条氏の支配下に入るが、永禄九年(一五六六)一月一三日、北条氏照は印判状(同文書)を発し、長念寺の寺領を安堵している。また天正七年(一五七九)三月三日の小田原北条氏家臣松田憲秀判物(山口文書)に「廿貫文余 白子村深沢共」とあり、大石氏の旧領であった当地を家臣の山口郷左衛門(重明)に宛行っている。
白子村
しらこむら
[現在地名]丸山町白子、千倉町白子
現丸山町から南の千倉町にかけての海岸部に位置し、西は安馬谷村・峯村・久保村など(千倉町の→白子村)。昭和三〇年(一九五五)丸山町成立に伴い、大字久保の一部とともに同町に分属。白子村の総鎮守であった三嶋神社が丸山町白子にあり、千倉町南朝夷の高家神社の本社とする口碑もある(安房国神社志料)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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