八田村(読み)はつたむら

日本歴史地名大系 「八田村」の解説

八田村
はつたむら

面積:八・〇四平方キロ

郡北東部にあり、北はほぼ東流する御勅使みだい川を隔てて韮崎市、東は南流する釜無川を隔てて竜王りゆうおう町、南と西は白根しらね町。北東端で御勅使川が釜無川に合流する。御勅使川扇状地の北端に位置し、扇状地末端を釜無川が浸食して南北に崖を形成し、崖の東部は釜無川氾濫原となっている。西部を国道五二号、東部を県道今諏訪いますわ双葉ふたば線がともに南北に走り、中央部を東西に走る県道竜王―芦安あしやす線が交差する。扇状地にあるため開発は遅れたとみえて考古遺跡は確認されておらず、わずかに野牛島やごしま地区北端のあか山と称するローム層の丘から縄文土器などが発見されている。律令制下では巨麻こま郡に属したが、当村域に比定される古代の郷はなく、「続日本後紀」承和二年(八三五)四月二日条にみえる「巨麻郡馬相野空閑地五百町」の所在場所とされる。養老二年(七一八)行基開創と伝える榎原長谷えのきはらちようこく寺の本尊十一面観音は藤原時代初期の作とされ、はら七郷の守観音として古くから信仰されている。鎌倉時代初期の在地領主は明らかではないが、北の甘利あまり(現韮崎市)を領した一条忠頼、南の加々美かがみ(現若草町)に拠った加賀美遠光と甲斐源氏の有力者が近くにいるので、いずれかの勢力下にあったものと思われる。天福元年(一二三三)に八田御牧、天文一三年(一五四四)に八田庄と記す史料がみえることから、中世を通じてしだいに開発されていった様子がうかがえる。


八田村
はつたむら

[現在地名]金沢市八田町・湖陽こよう一―二丁目

大場おおば村の北、河北潟南東岸に位置。時衆過去帳(清浄光寺蔵)の遊行一六代南要(在位一四二九―四〇)の結縁者に重阿弥陀仏・東一房の名がみえ、それぞれその裏に「賀州八田成田殿」「成田母儀」と記される。「賀州矢田」と記される江沼えぬま八田やた(現小松市)か、あるいは石川郡八田はつた(現松任市)か断定は困難で、当地の可能性もある。正応六年(一二九三)二月二二日二代他阿真教に結縁した時衆に本阿弥の名がみえ、その裏に「八田」とあるのを初見として八田の名は同過去帳に散見される。能登八田金台やたこんたい(現七尾市)との区別は不明だが、加賀北部の時衆の拠点梅田うめだに近接する点から、当地の可能性も捨てきれない。年未詳四月一日の本願寺実如書状(光徳寺文書)に、木越光徳きごしこうとく寺の二十八日講に属する八田・大浦おおうら千木せぎ・木越の門徒が銀子三枚の志を本願寺に送ったことがみえる。「天文日記」天文八年(一五三九)一〇月二四日条に「前木越下号八田賢正」の上番記事がある。同二二年五月八日条にも賢正が前木越下として上番していることが載る。天正一四年(一五八六)正月二二日の前田利家印判状写(黒津舟神社文書)によれば、利家が黒津舟くろつぶね権現(現内灘町)再興を命じた村々に「八田村」が含まれる。


八田村
はつたむら

[現在地名]松尾町八田

猿尾さるお村の北に位置し、横芝よこしば(現横芝町)を経て銚子に至る道が通る。追分おいわけには寛政一一年(一七九九)の道標が建つ。この道の東方は鳥喰とりはみ沼で、反対側にも大小の池沼が散在していたが、現在は坂田さかた池を残し干拓されている。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一千五一六石。慶長六年(一六〇一)には関東総奉行内藤清成の管轄下にあったとみられる。寛永一〇年(一六三三)には幕府領と旗本山田・美濃部・深津・長田・石原・太田六氏の相給(明治三年「高反別納方書上帳」古谷家文書など)。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では八田組に属し、山田領四〇〇石、深津領・美濃部領各三五〇石、旗本八木領・同永田領各二〇〇石。元禄一〇年(一六九七)の地方直しに伴い八木領は幕府領と旗本三氏に分与された。寛政五年の上総国村高帳では家数一八七、三卿の清水領、旗本山田・美濃部・深沢・永田・丸毛・松並・紅林・石原・太田領。


八田村
はつたむら

[現在地名]岸和田市八田町・天神山てんじんやま町一―三丁目

神須屋こうずや村の南、津田つだ川旧河床の中央部で、河床変更による独立丘陵おお(天神山)の北東に位置する。津田川は阿間河滝あまがたき村との村境を北西流し、塔原とのはら街道が土生はぶ村との村境を南東から北西に走る。

中世には八田庄があり、当地一帯に所在した庄園と考えられる。「葉黄記」宝治元年(一二四七)五月一日条によれば八田庄のことが院の評定で議されているが、内容は不明。下って正平二四年(一三六九)一一月五日の橋本正高遵行状(二見文書)に「和泉国八田荘内平井三郎左衛門入道成倉跡、所職名田畠等」とみえ、一一月二日の綸旨に任せて当所を二見遠江代官に沙汰付けするよう命じている。また同二五年二月二七日の橋本正高遵行状(観心寺文書)によれば「和泉国八田庄内利行富益名」を、二月二五日の御教書に任せて観心かんしん(現河内長野市)の雑掌に沙汰付けするよう命じている。


八田村
はたむら

[現在地名]伊野町八田

伊野村の南南東に甫木ほき山を隔てて位置し、仁淀によど川の支流奥田おくだ川が南西流する。西は弘岡ひろおか井筋と仁淀川がほぼ並行して南流し、比較的平野の多い地である。「土佐州郡志」は「東西八十町許南北七十町」と記す。慶長二年(一五九七)の大野郷八田之村地検帳によれば、古代以来の大野おおの郷に含まれていたと考えられる。同年以前にも検地が行われており、前記地検帳に「先地検之高」として六八町二反三三代五歩、「今地検之高」として九七町三反三八代とある。これによれば打出しが二九町一反余に達し、慶長再検地の厳しさを示している。屋敷数一〇二。また「江ソヘ」などの沼沢地の水田化がみられ、在地武士の給地と名主の名田とが混在している。小村の土居村には「土居ヤシキ」があるが給地化され、当地の有力者であったと考えられる居住者はなく没落している。


八田村
はつたむら

[現在地名]石和町八田

石和宿の北東二町ほどの地点に位置し、西流する笛吹川を境に北は山梨郡山崎やまさき村。枝村に新屋あらやがある。武田氏滅亡後の天正一一年(一五八三)四月二六日付の二通の徳川家康印判状写(八田政統家文書)に八田村とみえ、家康は同村市丞に対し田畠・屋敷を安堵し被官以下一三間の棟別役を免除し、さらに一月につき馬五疋の役所(関所)通行を免除している。同年九月二一日には同村新左衛門尉に対し、田畠・屋敷等を安堵している(「徳川家印判状写」同文書)。田畠の所在は記されていないが、多くは当村内であったのであろう。なお大量に残る天正一〇年・一一年の徳川氏の安堵状のなかには当地が宛行われた例はない。


八田村
やたむら

[現在地名]真備町箭田やた

南部を小田おだ川が東流、村中央を山陽道が東西に抜け、東隣川辺かわべ村からの一里塚がある。「和名抄」下道郡八田郷に比定される。応永一四年(一四〇七)一二月九日、細川満国に与えられた地に「矢田郷」がある(「足利義満御教書」細川文書)。永享元年(一四二九)の備中国惣社宮造営帳写(池上家文書)には棟別一間に二〇文課せられた国衙領に矢田部がある。なお応永元年仮託の吉備津宮惣解文写(吉備津神社文書)には「八田庄」として大中臣行貞より安居師御菜少々が奉献されている。永禄(一五五八―七〇)頃と推定される洞松とうしよう(現小田郡矢掛町)の寺領帳に「八田之分」として五反・定米三石八斗とある。


八田村
はつたむら

[現在地名]七尾市八田町

石動せきどう山系の麓、御祓みそぎ川の支流捨越すてこし(笠師川)上流部に位置し、北は国下こくが村。垣内に中組なかぐみ西組にしぐみ東組ひがしぐみがある。正保郷帳によると八田村・中挟なかばさみ村の高五七六石余、田方二五町八反余・畑方一二町五反余。承応二年(一六五三)の高四五四石(「郷村高辻帳」鹿島郡誌)、役棟一八(「棟役調」同書)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高四六六石、免四ツ八歩、小物成は山役二七一匁・苦竹役二四匁、鳥役四匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。天明六年(一七八六)の村鑑(加越能文庫)によれば、貞享五年(一六八八)に九七石の引高があり、元禄二年(一六八九)一〇石、享保九年(一七二四)二石の手上高があって高三八一石となる。


八田村
はつたむら

[現在地名]嬉野町八田

中村なかむら川の下流右岸沿いの台地上に位置し、ほりうち村の西南にあたる。西はうえ村で、北対岸は島田しまだ村。小字名に海道かいどうがあり、中世の開墾地に由来する垣内地名に通じる。「和名抄」記載の古代郷八太はちた郷の遺称地とする説もある。山上の字城山しろやまに霧ヶ城と称する八田城跡があり、永禄一二年(一五六九)大多和兵部少輔の居城という(五鈴遺響)


八田村
はつたむら

[現在地名]水口町八田

はた村の西、丘陵内の小盆地に集落を形成。北は蒲生がもう郡境、西は下田しもだ(現甲西町)に通じる。文永二年(一二六五)八田村の前地主である御家人五郎兵衛尉定俊は昨年分の供米などを押領、感神院所司はこれを訴えたが、悪党行為は続いた。新しい地主代の藤原友秀は違乱なく沙汰すべき旨を約している(同年九月一日「藤原友秀請文」近江南部文書)


八田村
はつたむら

[現在地名]大宮町八田

たま川の中流域に位置し、北は東野とうの村。「和名抄」久慈郡にみえる八部やたべ郷の地とされる。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「八田村」とみえ、「水府志料」によると戸数およそ八六。年貢額決定のための享和二年(一八〇二)の畠麦作歩刈の事(「大宮町史」所収)によると、八田村本郷分は上田・上畠でともに四ツ取であった。「水府志料」に「古館 小屋台といふ所にあり。即今の陣屋此所なり。古老の説には、八田知家これに居り、其子孫梅香斎光重と云人、江戸但馬(守)重通に戦負て、八田、菅又の両城落たりといふ。


八田村
はつたむら

[現在地名]松任市八田町・旭丘あさひがおか一丁目

八田中村の西に位置し、北西部は日本海に面する。中村なかむら用水の支流柳橋やなぎばし川・のみぐち川が貫流する。慶長一二年(一六〇七)六月の中村用水普請人夫ニ付達書(松任町史)に村名がみえる。正保郷帳では高七七九石余、田方三五町九反余・畑方一六町、新田高二八石余(免二ツ五歩)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(八田区有文書)では高八〇六石、免四ツ七歩、小物成は外海引網役二六匁、猟船櫂役五匁(ほか二〇匁退転)、鳥役三〇匁(ただし鷹場につき免除)、六歩口銭四分(出来)。寛文年間の家高数九(うち浦方引三)・百姓数一七(高免付給人帳)


八田村
はつたむら

[現在地名]東区八田・八田二―四丁目・青葉あおば一―七丁目・香椎かしい六丁目・土井どい一丁目・舞松原まいまつばら五―六丁目・みどりがおか一丁目・若宮わかみや一丁目など

表粕屋おもてかすや郡に所属。土井村の北西、立花たちばな山の南に位置する。宗像社家文書惣目録(宗二)に「一通、義満将軍下文、応永五年十一月七日、筑前国八田・恵通寺両所合戦御感状社務千代松丸代、但氏経也」とみえる。千代松丸は宗像氏経の童名で、明徳三年(一三九二)に社務職を譲られている。また元亀二年(一五七一)九月一四日の領家勤仕神物社役注文案(三苫文書/香椎B遺跡)に「一、於八田之郷米二斗六升、定使請取之」とある。


八田村
はつたむら

[現在地名]宮崎村八田

舟場ふなば村の東にある。府中(現武生市)に向かう道に沿い、四方を山に囲まれる。枝村は北谷きただに水上みずかみ(越前国名蹟考)。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「織田庄平村」に含まれると考えられる。初め福井藩領、元禄一〇年(一六九七)高森藩領、享保五年(一七二〇)再び福井藩領となったが、明和元年(一七六四)以降三河国西尾藩領。元禄一六年一二月の村々大差出帳樫津組(田中家文書)によると田方七五九石余・三七町九反余、畠方一二一石余・一一町六反余、家数八二、うち本百姓四一・水呑三四・隠居七、人数三八六、牛一一匹・馬一八匹、氏神はつるぎ大明神(現織田町)で、引接いんじよう(現武生市)月山がつさん(天台真盛宗)がある。


八田村
はつたむら

[現在地名]田原本町大字八田

唐古からこ村の東北、初瀬はせ川西岸に所在。慶長郷帳の村高は八八〇・七三六石で、うち旗本鈴木氏(重時系)領八〇〇石、旗本武藤氏(安成系)領六一・七七石、幕府領(代官大久保長安)一八・九六六石。鈴木氏領は慶長一二年(一六〇七)後嗣なしとして幕府領(代官間宮三郎右衛門)となるが、鈴木重勝が父の旧領の一部を与えられ、また一部が旗本小野氏(貞勝)領となった。すなわち元和元年(一六一五)の段階では、四〇〇石が幕府領、二〇〇石が旗本鈴木氏領、二〇〇石が旗本小野氏領、六一・七七石が旗本武藤氏領、一八・九六六石が郡山藩(水野勝成)領と細分されている。


八田村
はつたむら

[現在地名]舞鶴市字八田・字八戸地はとち

大川おおかわ村の北東、由良川の左岸に位置し、集落は由良川の蛇行の凹面に谷に沿ってある。枝郷に八戸地があった。

中世には丹後国田数帳に記す祇薗寺ぎおんじ庄域であったとされるが確認できない。近世の八田村の成立については、細川藤孝(幽斎)田辺八田たなべはつた郷に田辺城を築城した際、のちに城下の紺屋町こやまちとなった地に在住していた農民をこの地に移して住まわせたことによると伝え、八田の氏神松尾まつお社および八戸地の氏神白鬚しらひげ社は村人が移住の時に奉遷して来たものという。

慶長検地郷村帳に高五六五・〇六石「八田村」とみえ、享保三年(一七一八)の領中郷村高付でも同高で、「枝郷八戸地村」が記される。


八田村
はつたむら

[現在地名]園部町南八田みなみはつた

下天引しもあまびき村・大河内おおかわち村の東にある南北に長い山村。東は埴生はぶ村、北は宍人ししうど村、南は大河内村大谷おおたに村の先端部。北部を篠山街道(山陰道)が東西に通り、集落がこれに沿う。本梅ほんめ川の支流が集落中を北流する。園部藩領。北の方にも八田と称する地域(現丹波町)があるので、当村は「南ノ」(元禄一三年丹波国郷帳)、また「南」(天保郷帳)をつけて記された。

八田村は交通の要地であったとみえ、元文三年(一七三八)の役馬の定(「船井郡誌」所引)には「馬参疋 八田村太介、喜右衛門、清兵衛」とあり、船井郡南部の総数一〇疋のうち三疋を当村がもっている。


八田村
はつたむら

[現在地名]秋田市太平八田

太平山矢櫃やひつ沢から西南に流れる八田川(二部にぶ川)に沿い、木曾石きそいし弐部にぶ(現仁部)、八田の集落が開ける。八田川は八田村の南で太平川に合流し、ここに水田が広がる。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)では太平村に一括されるが、慶長六年(一六〇一)の秋田実季侍分限(秋田家文書)に八田村・二部村の名がある。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に、八田村九六二石とある。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に「八田村 五十三軒」とあり、支郷として元和二年(一六一六)開田で家数一四軒の木曾石村と、家数六軒の関口せきぐち村、四軒の竹野前村、三五軒の弐部村が記される。


八田村
はつたむら

[現在地名]下館市八田

小貝こかい川右岸に位置し、北は奥田おくだ新田。中世は小栗おぐり御厨に属し、「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)一一月八日条に、「今日武衛赴鎌倉給、以便路御小栗十郎重成小栗御厨八田館云々」とある。小田氏の祖となった八田知家が初めは当地を領したとも伝えられる。「寛文朱印留」に土浦藩領として「八田村之内」とあり、一部が土浦藩領であったが、天保八年(一八三七)の常陸御国絵図御改之記(中村家文書)には、村高二五七・五五六石、鎮守観世音、家数一三、馬四、夏目左近将監・阿部忠四郎知行所とあり、旗本の相給地となっている。


八田村
はつたむら

[現在地名]椎田町西八田にしはつた東八田ひがしはつた築城ついき東築城ひがしついき

宇留津うるづ村の北西に位置し、周防灘に面する平地に立地する。元和八年人畜改帳では家数二七・人数五四(うち惣庄屋一・百姓二・名子一六)、牛六・馬四。郷村高帳では高一千五二一石余、うち新田高一二三石余。旧高旧領取調帳では高一千三五六石余。横井塚池・堤池・小野池・文田池・徳光池などがあった(築上郡志)


八田村
やつだむら

[現在地名]津川町鳥井とりい 八ッ田

福取ふくとり村の東に位置する。文禄三年(一五九四)七月の蒲生氏高目録帳(内閣文庫蔵)に「矢知田 百廿石八斗六升」とある。元和六年(一六二〇)の漆木役は一千三六九本一分(津川旧記)。文政三年(一八二〇)の人馬改帳(佐藤一二氏蔵)には、村高二〇三石八斗余、漆木役一千四六九本一分、家数二九・人数一四四、馬四一とある。当村は新発田しばた街道の宿駅で、上りは陸奥と越後の境である鳥井峠を越えて宝川ほうかわ(現福島県耶麻郡西会津町)に継ぎ、下りは福取村に継ぐ。


八田村
はつたむら

[現在地名]秋田市下浜八田

西と南北の三面は小山を負い、東は八田川沿いに水田が開ける。小山おやま村より一九町南、羽川はねがわ村より一里一二町東。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に、羽根川はねがわ郷内六ヵ村の一つに八田村がみえる。寛永二年(一六二五)八月一三日岩城知行地を巡見した梅津政景は、「前郷より茗か沢村、八田村、黒瀬村ニ昼休」(梅津政景日記)と記す。


八田村
はつたむら

[現在地名]中村区八田町、中川区八田町

北を岩塚いわつか村・烏森かすもり村に接し、中央部がくびれた地形である。そのくびれた位置を柳瀬やなせ川が南北に流れる。集落は万町まんちよう(現中川区)の集落と続いている。「寛文覚書」によれば、寛文一一年(一六七一)の家数二五、人数一四一。集落内に観音堂があり、名古屋城下政秀せいしゆう(現中区)の控地。


八田村
はつたむら

[現在地名]瑞穂町字八田

井尻いじりの谷の中央部にある山村。井尻川が村内を北流し、東西の村境は五五〇メートルほどの山で南北がわずかに開ける。東はたに(現丹波町)、南は小野この村、西は東又ひがしまた村、北は井尻村。

同名の村が船井郡内にもう二ヵ所(現園部町・現丹波町)あるため、当村は郷帳類に「井尻」を冠して記される。


八田村
はつたむら

[現在地名]五條市八田町

吉野川南岸、南阿田みなみあだ村東方に所在。慶長郷帳の村高一一五・七二四石。元和郷帳では「はかた村」、寛永郷帳では「八ケ田村」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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