白須賀宿(読み)しらすかしゆく

日本歴史地名大系 「白須賀宿」の解説

白須賀宿
しらすかしゆく

[現在地名]湖西市白須賀

天伯原てんぱくはら台地上にあり、東は大倉戸おおくらど新田村(現新居町)、南は遠州灘浜名郡に属する。東海道が通り、江戸日本橋から三二番目の宿場町。鎌倉期の飛鳥井雅経の「明日香井集」には「おきつかせおともたかしの山こえてうちよするなみのしらすかの浜」とあり、「夫木抄」には参議為相が「しらすか」について「まさここす浪かと見れは数しらすかもめむれゐるおきのはなれす」と詠んでいる。観応擾乱後の文和二年(一三五三)八月一二日、足利尊氏は上洛の途次、白須賀に到着している(園太暦)。文明五年(一四七三)八月の「正広日記」には「しらすかといふ所のあさましきあまのとまやに、一夜浪のをとを枕にてあかし侍に」とある。天文年間(一五三二―五五)の三月二四日、大村家盛は伊藤太郎佐衛門経営の「しらすかの宿」に泊まっており(「参詣道中日記」大村家文書)山科言継は駿府下向時の弘治二年(一五五六)九月二〇日、三河吉田よした(現愛知県豊橋市)から白須賀を経て前坂まいさか(現舞阪町)に泊まっている(言継卿記)。永禄七年(一五六四)三月三〇日の飯尾致実(連龍)書状写(「古簡編年」徳川林政史研究所蔵)では、白須賀駅の放火について「宿民手之過言」であると今川氏に弁明しているが、この放火は飯尾氏が徳川方に味方するために行ったとする説もある(家忠日記増補追加)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の白須賀宿の言及

【白須賀】より

…汐見坂は眼下に太平洋が広がり,東海道では富士山の見える西方の限界に位置する景勝地で,中世から多くの文人・画家にその材料を提供している。白須賀宿は1843年(天保14)の調査によれば,人口が加宿と合わせると2704人で,宿の中心部に本陣・脇本陣が1軒ずつ,旅籠屋が27軒あった。東海道の隣宿の新居宿までは1里24町,二川宿へは1里17町の距離があり,また渥美半島の村々へ通ずる脇往還の起点となっていた。…

※「白須賀宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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