百姓町
ひやくしようまち
[現在地名]金沢市幸町
鱗町の南東にある地子町。南東は安房殿町、南は新竪町・主馬町に続く。もとは石川郡石浦村の集落があったが、市中の拡張にともない百姓も商人となり、町地となったことから百姓町とよばれるようになった(金沢古蹟志)。町立ての時期は不詳だが、寛永八年(一六三一)の氏子絵図(石浦神社蔵)に百姓町とみえる。承応四年(一六五五)の書札(金沢古蹟志)には「止伊原町法然寺」とあるが、元禄六年(一六九三)の侍帳には「百姓町ほうねん寺」とある。正徳五年(一七一五)の「六用集」にも「法然寺百姓町」とみえることから、元禄頃までに止伊原町を合併したものとみられる。
百姓町
ひやくしようちよう
[現在地名]洲本市栄町二―三丁目・本町五―七丁目
鍛冶屋町・新町の北に並行する東西の通り。外町のうちで武家地。東端は中堀に架かる農人橋へと続き、西端は南北に通る溝ノ丁に至る。長さ八七間余、通幅二間半(味地草)。もとは津田村のうちで、町名は同村庄屋柏木氏の屋敷が農人橋西詰にあったことによる(安永年間「城下図」淡路文化史料館蔵)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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