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出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
愛知県北西部にある陶磁器の産地。1929年(昭和4)市制施行。1951年(昭和26)水野村、1955年幡山(はたやま)村、1959年品野(しなの)町を編入。名古屋市の北東約20キロメートルにあり、名古屋鉄道瀬戸線で結ばれる。西部を愛知環状鉄道、東部を東海環状自動車道が縦貫し、せと品野(しなの)、せと赤津(あかづ)の二つのインターチェンジがある。ほかに国道155号、248号、363号が走る。矢田川支流水野川、瀬戸川、山口川などの谷底に集落がある。周りの尾張(おわり)丘陵は第三紀鮮新世の地層からなり、そのなかの瀬戸層群中には良質の陶土を埋蔵している。鎌倉時代に中国宋(そう)の窯業技術を学んだ加藤四郎左衛門景正(しろうざえもんかげまさ)(通称加藤藤四郎(とうしろう))がこれに着目して祖母懐(そぼかい)で開窯したのが始まりと伝えられ、藤四郎窯と称する古窯が広く分布するのもそのためである。尾張藩時代、江戸中期になると、九州の磁器に押されて市場が狭まったため、藩の制限・保護政策で、陶器は「ろくろ一挺(ちょう)一代限り」といわれ、一子相続の世襲制であった。磁器は、瀬戸生まれの加藤民吉(たみきち)が、1807年(文化4)に九州有田(肥前磁器)の技法を導入してから急速に発達し、民吉を祭神とする窯神(かまがみ)神社がある。明治以後は陶磁器製造は自由化、需要の増大、輸出の拡大によって飛躍的発展をみた。
この間、製法、製品も時代とともに進歩し、現在では生産額では全国有数を誇り、県下の約70%を占める窯業都市となった。製品は玩具(がんぐ)や置物、和洋食器、電気用器具、ファインセラミックスなど、多種にわたる。市内には陶磁器関係の施設、愛知県陶磁美術館(2013年に愛知県陶磁資料館から名称変更)、瀬戸蔵ミュージアム、瀬戸市新世紀工芸館もある。国指定史跡に小長曽(こながそ)陶器窯跡、定光寺(じょうこうじ)の本堂と尾張藩祖徳川義直(よしなお)の霊廟(れいびょう)は国指定重要文化財。そのほか、観光地に岩屋堂(いわやどう)公園や岩屋堂温泉などがある。また、9月第2土・日曜の「せともの祭」は県内外の訪客でにぎわう。面積111.40平方キロメートル、人口12万7792(2020)。
[伊藤郷平]
『『瀬戸市史』陶磁史編1~6、資料編1~4(1967~2003・瀬戸市)』
岡山県南部、赤磐郡(あかいわぐん)にあった旧町名(瀬戸町(ちょう))。現在は岡山市東区の一地区。1914年(大正3)物理(もとろい)村が町制施行して瀬戸町となり、1955年(昭和30)万富(まんとみ)町、潟瀬(かたせ)村、上道(じょうとう)郡玉井村と合併。2007年(平成19)瀬戸町は岡山市に編入。旧町域の東部は吉井川、西部は砂川の流域で水田が発達し、丘陵部にはモモ、ブドウが栽培される。中央部を東西にJR山陽本線が走り、中心の瀬戸は砂川の谷口集落としての商業機能を有してきたが、1950年代後半から中小工場の立地をみ、1969年には吉井川右岸の万富に内陸工業団地が造成され、中国・四国最大規模のキリンビール岡山工場が誘致された。1995年(平成7)には県営瀬戸工業団地が完成している。万富、瀬戸地区には住宅団地が増加し、岡山のベッドタウン化している。万富には、鎌倉時代に東大寺再建に用いられた瓦窯(がよう)跡(国指定史跡)がある。宗堂(そうどう)の桜はヤエザクラの一種で県指定天然記念物。
[由比浜省吾]
『矢部秋夫著、難波武志編『瀬戸町の歴史散歩』(1984・瀬戸町の文化財を語る会)』
愛媛県西部、西宇和郡にあった旧町名(瀬戸町(ちょう))。現在は伊方町(いかたちょう)の中部を占める地域。佐田岬半島の中央部にあり、北は瀬戸内海(伊予灘(いよなだ))に臨むリアス海岸、南は宇和海に面して砂浜が多い。旧瀬戸町は、1956年(昭和31)三机(みつくえ)、四ツ浜の2村が合併して成立。「瀬戸」の名は瀬戸内海にちなむ。2005年(平成17)三崎(みさき)町とともに伊方町に合併、新しい伊方町となった。伊予灘に臨む中心集落の三机は宇和島藩時代からイワシ漁業で栄え、参勤交代路の港、海産物の取引の中心であった。太平洋戦争開戦時に真珠湾突入をした海軍特殊潜航艇乗員の訓練基地でもあった。宇和海側の大久浜(おおくはま)一帯では三崎牛とよばれる肥育牛の飼育が行われ、急傾斜地ではミカン栽培が盛んで、とくに甘夏柑(あまなつかん)の生産が多い。国道197号(佐田岬メロディーライン)は宇和海側を通る。
[横山昭市]
『『瀬戸町誌』(1986・瀬戸町)』
愛知県北部,名古屋市の北東に位置する窯業都市。1929年市制。人口13万2224(2010)。市域の大部分を占める丘陵地は瀬戸層群と呼ばれる第三紀鮮新世の地層で,ここから陶土やケイ砂が採掘される。瀬戸焼は鎌倉初期に宋で陶法を学んだ加藤四郎左衛門景正が窯をひらいたのが始まりといわれ,近世には尾張藩の保護を受けて発展した。一時九州産の磁器に押されて衰退したが,文化年間(1804-18)加藤民吉が藩の命で磁器の製法を導入して盛り返した。明治時代に入り石炭窯の導入,瀬戸陶器学校の設立などにより近代化が進み,さらに第2次大戦後,重油・ガス窯が用いられるようになって食器のほかにノベルティ(装飾陶器),玩具,電気用品などが輸出用に大量生産され,全国屈指の陶磁器生産地となっている。毎年9月には〈せともの祭〉が行われ,市内中央部を流れる瀬戸川の両岸に延々と出店が並ぶ。東海自然歩道が走る市内東・北部は愛知高原国定公園に指定されており,尾張藩祖徳川義直の廟所がある定光寺にも訪れる人が多い。名鉄瀬戸線が名古屋市の中心に通じ,住宅地化も進んでいる。2005年長久手町とともに愛知万国博覧会の会場となった,愛知環状鉄道線が通る。
執筆者:溝口 常俊
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…二つの陸地にはさまれた狭い水域。瀬戸または水道ともいう。陸地が断層運動や曲降運動などにより海中に沈んでつくられた海峡は深く(ジブラルタル海峡,紀伊,豊後両水道など),広い陸地が海中に沈んで低地や谷に海水が浸入してつくられた海峡は浅い(ダーダネルス海峡,関門海峡など)。…
…豊川河谷に沿って中央構造線が走るが,その南側の外帯には赤石山脈から続く弓張山地を経て,渥美半島の骨格をなす秩父古生層の山地が点在する。尾張の東部は鮮新・更新統からなる知多半島に続き,瀬戸陶土層,常滑ケツ岩層に多量に含まれる陶土は瀬戸,常滑の窯業地帯を支えている。濃尾平野(尾張平野)は面積約1800km2と関東平野に次ぐ日本で第2の平野であり,北から犬山を扇頂とした木曾川扇状地,自然堤防地帯,三角州低地と続く。…
… 産業面では,中世における最大の窯業地の中心が尾張であった。瀬戸では美濃とともに当時唯一の施釉陶器の産地として宗教用具や高級日用具を,常滑(とこなめ)では無釉の日用具を産した。現在瀬戸では500以上,常滑では1300以上の中世窯跡が確認されており,その製品は全国的に市場をもっていたことが,各地の発掘調査から知られている。…
…東海諸窯では山茶碗窯と併存して分業生産体制をとっており,壺,甕,擂鉢のほか,若干の水注や四耳壺,仏器類を併焼している。第3は猿投窯山茶碗窯を母体として12世紀末葉に成立した,中世唯一の施釉陶窯である瀬戸である。瀬戸では前代の中国陶磁模倣の伝統を復活させ,南宋・元・明代の青磁,白磁を写しており,15世紀には美濃にまで拡散した。…
※「瀬戸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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