皆川城内村(読み)みながわじようないむら

日本歴史地名大系 「皆川城内村」の解説

皆川城内村
みながわじようないむら

[現在地名]栃木市皆川城内町

大皆川おおみながわ村・岩出いわで村の西に位置し、東を除いて三方蓬莱ほうらい山および太平おおひら山系の山稜に囲まれ、わずかに西方小野口おのぐち柏倉かしわぐらからの扇状地が延びる。中央部は永野ながの川支流のふじ川・柏倉川流域の低湿地、東部は永野川が南北に貫流し、一部は吹上ふきあげ扇状地をなす。史料上皆河とも記される。中世は皆河庄のうちで、皆川氏の居城皆川城があった。近世は領主米倉氏の陣屋が置かれ、元禄郷帳などでは本皆川もとみながわ村とも記される。延応元年(一二三九)一二月二五日の四条天皇宣旨写(門葉記)に「下野国皆河庄」とあり、天福元年(一二三三)に長く青蓮院門跡領とする宣旨が出されたという。この庄園の開発領主を皆河氏とし、その断絶後に新たに長沼系皆川氏が同庄に入ったとする説があり、少なくとも戦国期には当地域は皆川城を中心に皆川氏の勢力の中心となっていた。

天正一八年(一五九〇)小田原の陣ののち、皆川広照は徳川家康の臣として旧領一万三千石を安堵され、のち三万五千石を領有。慶長八年(一六〇三)には都合七万五千石となるが、同一四年除封。元和元年(一六一五)榎本藩主本多忠純が皆川に一万八千石を加増されるが、当地に居を移したかどうかは未詳

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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