相根村(読み)おおねむら

日本歴史地名大系 「相根村」の解説

相根村
おおねむら

香西かさい川右岸、大根おおねに比定される。香取社領。青根・相禰とも記す。嘉承―長承期(一一〇六―三五)のものとみられる香取社大禰宜大中臣真平譲状(香取文書、以下断りのない限り同文書)に「限西福田・相根堺」とみえ、嫡子真房(実房)に譲られた織幡おりはた村の北西に接していた。建久五年(一一九四)以前に前神主大中臣重房(知房)と現神主大中臣助康は相根・加符かふ両村をめぐって争い、重房が出廷しなかったため助康の勝訴となっている(同年五月日関白前太政大臣藤原兼実家政所下文写)。建永元年(一二〇六)六月に香取社神主に補任された大中臣広房は、同年一二月に相根郷を検注しようとしたところ、大戸おおと庄に勢力をもつ千葉氏一族の地頭国分胤通が同郷を「地頭堀内」と号して検注使の入部を妨げ、所当・官物や苧・桑・麦地子などを抑留したため、翌二年に訴え、勝訴している。広房によれば当郷は往古からの神領で、神主大中臣周房の時に地頭の押領を受けて訴えたが、裁許が遅れたため周房の神主の任期が切れてしまい、うやむやになってしまった。その後の神主大中臣国房の時にも押領されたため、摂関家の裁許と鎌倉将軍家の下文を得て押領は停止されたという(以上、建永二年一〇月日関白近衛家実家政所下文案)。このことから当郷は神主の知房・助康・周房・国房・広房へと遷替された神主職領であったと考えられる。承元三年(一二〇九)にも香取社地頭国分胤通が当村を地頭堀内と称して押領することを停止し、神主が所当・官物を徴収することが認められている(同年三月一七日関東下知状案)。なお神主大中臣実房(真房)から知房(重房)―周房―女子(神主実広の妻)―実盛へと継承されてきた相根・二俣ふたまた・加符三ヵ村内の灯油料所である田畠屋敷などが、康元元年(一二五六)に実盛から息女亀若女(大中臣実康の妻)に譲渡され、弘安五年(一二八二)本家摂関家から安堵されており(同年一〇月日関白鷹司兼平家政所下文写、年月日未詳「香取社神主大禰宜両系図写」色川本香取文書)、村内の一部の田畠屋敷は香取社灯油料所として、神主職とは別相伝の大中臣家の私領となっていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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