真浦村(読み)もうらむら

日本歴史地名大系 「真浦村」の解説

真浦村
もうらむら

[現在地名]和田町真浦・真浦飛地もうらとびち

和田村南西に位置し、海に面する。伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が通る。明治元年(一八六八)の分村事蹟并口牌之記(真浦区有文書)によれば、元禄一二年(一六九九)布野ふの村と西白渚にししらすか村を分村したという。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高三〇二石余、うち田方一八三石余。里見氏給人領。正保郷帳では田高二二〇石余・畑高一二七石余、旗本上野貞当領。慶安四年(一六五一)上知されて幕府領となり、元禄一〇年旗本松平定之に与えられた(「寛政重修諸家譜」、元文村高帳など)。以後同家に伝えられたが、天保一四年(一八四三)武蔵忍藩領となる(忍藩領郷村高帳)。嘉永六年(一八五三)上知され、旧高旧領取調帳では幕府領。元文村高帳では高二〇九石余で、以後変動はない。


真浦村
まうらむら

[現在地名]珠洲市真浦町

仁江にえ村の西にあり、海岸づたいに外浦街道が通る。西海上さいかいかみ浦の内で、天正一〇年(一五八二)―一五年分の西海年貢算用状写(友貞文書)の同一一年分には「まうら 孫右衛門」とあり、扶持分一〇俵となっている。先年は百姓二五軒があったが、慶長一八年(一六一三)には二二軒が逐電、当時鳳至ふげし郡の時国家から塩手銀を借りていた者を含んでいたため、残った三人に催促がきた。しかし返済の方便がなく、百姓持山の六ヵ所を借銀代にとられ、その山役銀も当村の負担と言掛けてきたので、寛文五年(一六六五)時国家と山出入になっている(橋詰文書)。正保郷帳に村名がみえ、高八六石余、田四町五反余・畑一町二反余。


真浦村
まうらむら

[現在地名]赤泊村真浦

柳沢やなぎさわ村の北東北西小佐渡山地を負い、大崎おおさき(現羽茂町)に接する。北東一キロほどで赤泊湊に至る海岸沿いの村。文永一一年(一二七四)佐渡配流を解かれた日蓮の出船地として知られ、建治二年(一二七六)三月日の日蓮書状(日蓮聖人遺文)に「文永十一年二月十四日の御赦免状、同三月八日に佐渡の国につきぬ。同十三日に国を立て、まうらというつにをりて、十四日は、かのつにととまり」とある。

元和三年(一六一七)の屋敷検地帳(石塚栄一氏蔵)によれば、熊野権現社人の永井家、天神社人の中川家、若宮権現社人の渡辺家、大宮権現社人の石塚家、曾里地そりじ観音堂別当の海老名家が、それぞれ隠居と名子を一―三軒ずつ擁している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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