矢場村(読み)やばむら

日本歴史地名大系 「矢場村」の解説

矢場村
やばむら

[現在地名]太田市矢場・矢場新町やばしんまち、栃木県足利あしかが里矢場町さとやばちよう新宿町あらじゆくちよう藤本町ふじもとちよう

植木野うえきの村の南東、郡界を南東流する矢場川西方右岸に位置し、西境にら川が南流する。西は台之郷だいのごう、南は沖之郷おきのごう、北は大町おおまち(現足利市)、東は下野国梁田やなだ堀込ほりごめ(現同上)など。本矢場もとやばから新宿にかけて日光例幣使街道が東西に通る。矢場四ヵ村といわれるように現太田市域の本矢場村、現足利市域の里矢場村・新宿村・藤本村の四村からなるが、四村の土地が入組んでいたために矢場村として支配を受けるようになったと伝え、郷帳類では一村で高付される。

「松陰私語」によると、文明三年(一四七一)下野国佐野さの八椚やつくぬぎ(現足利市)攻撃のため只木ただき(現同上)へ着陣した長尾景信に対し、横瀬国繁は自分の知行分である「矢場大蔵辺」に陣を布くことをすすめている。また永禄八年(一五六五)には「矢場公事」として著名な訴訟事件が起こっている(「長楽寺永禄日記」二月・三月条など)。これは矢場郷の地侍で由良氏家臣の石橋与三左衛門が長楽ちようらく(現新田郡尾島町)平塚ひらづか(現佐波郡境町)の百姓から大豆を買上げた際、買銭に悪銭を用い、これに怒った百姓らが矢場郷に赴いたことに端を発したもの。


矢場村
やばむら

[現在地名]足利市里矢場町さとやばちよう新宿町あらじゆくちよう藤本町ふじもとちよう、群馬県太田おおた市矢場・矢場新町やばしんまち

国境を南東流する矢場川南岸に位置し、対岸島田しまだ村・堀込ほりごめ村、南東は上野国山田やまだ荒金あらかね村。上野国山田やまだ郡に属し、現足利市域の里矢場村・新宿村・藤本村と現太田市域の本矢場もとやば村からなり、矢場四ヵ村ともいう。本矢場から新宿にかけて例幣使街道が東西に通る。文明三年(一四七一)八椚やつくぬぎ城攻撃のため只木ただき山に着陣した長尾景信に対し、新田岩松氏の家臣横瀬(のち由良姓を称す)国繁は自らの知行分である「矢場大蔵辺」に陣を張ることを勧めている(松陰私語)。永禄八年(一五六五)には、矢場郷の地侍で由良氏家臣の石橋与三左衛門が上野長楽ちようらく(現群馬県新田郡尾島町)領の平塚ひらつか(現同県佐波郡境町)百姓から大豆を買上げた際、買銭に悪銭を用いたことに端を発する「矢場公事」と称する訴訟事件が起こっている(「長楽寺永禄日記」同年二月・三月条など)


矢場村
やばむら

[現在地名]藤岡市矢場

南に浅間せんげん山、西に大谷おおやつの丘陵があり、東から南にかけて神田じんだ村、南から西にかけて三本木さんぼぎ村、北は藤岡町と東平井ひがしひらい村に接する。永禄六年(一五六三)五月一〇日に武田信玄との申合せによって安保氏に与えられた地に「矢場内吉里分」がある(「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)。天正八年(一五八〇)二月一七日には「矢場井古田分之内」五貫文が倉林氏に(「長井政実判物写」武州文書)、同一〇年六月には「矢場大平」二二貫文が高山重正に与えられている(滝川一益判物写「高山系図」所収)。寛文郷帳では田方一八九石余・畑方三四一石九斗余、前橋藩領と旗本伊藤・荒川領などの五給。元禄郷帳では旗本伊藤領・幕府領・旗本弓気多領などの六給。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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