日本歴史地名大系 「矢掛村」の解説
矢掛村
やかげむら
現矢掛町域の中央部、東流する小田川の左岸に位置し、同川に西辺を南流する
今川了俊の「道ゆきぶり」に「かるヘ川せいやまなどうちこえて、屋蔭といふさとにとゞまり侍ぬ」とみえ、「もののふの猛き名なれは梓弓やかけに誰かなひかさるへき」と詠じている。検討の余地は残るが「小田郡誌」に収める天正三年(一五七五)一二月一八日の毛利輝元宛行状にみえる「参百五十貫 西三成」は当地のことか。文禄の役に際して、肥前
寛永備中国絵図では矢懸村とあり、高八九六石余、松山藩領。元禄五年(一六九二)の差出書下書(石井文書、以下断りのない限り同文書)などによれば、寛永一九年幕府領となり、このとき宿の支配機構整備をはかるために町分と陸分に高分けし、庄屋も別立てにするなどの措置がとられたと思われる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報