矢掛宿(読み)やかげしゆく

日本歴史地名大系 「矢掛宿」の解説

矢掛宿
やかげしゆく

[現在地名]矢掛町矢掛

矢掛村の町分に置かれた山陽道の宿駅で、摂津西宮にしのみや宿(現兵庫県西宮市)から数えて一六番目、東の川辺かわべ宿(現吉備郡真備町)より三里、西の七日市なぬかいち宿(現井原市)まで三里。同宿との間には、堀越ほりこし宿、今市いまいち宿(現井原市)の間の宿があり、堀越宿までは約一里一〇町。

宿駅は松山藩領時代(元和五年―寛永一八年)に成立したと考えられ、寛永一九年(一六四二)幕府領になると、矢掛村の高を町分・陸分(村分)に高分けし、庄屋も別立てにするなど支配機構の整備が行われた。宝暦―安永期(一七五一―八一)の最盛期には町全体で六〇〇戸以上となり、本陣(石井家)脇本陣(高草家)を備え、備前・備中路では川辺宿と並んで、休泊利用度の高い宿であった。地子免除は寛永一〇年幕府巡見使通行に際し、伝馬役を勤める補償に堀越・今市宿とともに認められ(元禄五年「差出書下書」・延宝六年「検地奉行宛差出書」石井文書など、以下断りのない限り石井文書)、延宝五年(一六七七)の検地後も踏襲されたが、元禄四年(一六九一)に停止された。翌五年三宿は地子免除復活を求めて江戸出訴に及んだ。裁許は脇街道での地子免除は認められないが、町屋敷高と同高を年貢から差引くというもので、実質上地子免除を復活させた(覚撰記)。当初の免除高は不明だが、正保期(一六四四―四八)以降は二八石余、延宝五年検地の新高(出目高を含む)が採用された元禄五年以降は四五石余で、幕末までほぼ同高であった(各年免状など)。遅くとも貞享―元禄(一六八四―一七〇四)の頃には常備人馬二五人・二五疋が定まったと思われる(元禄二年牛馬数毛色改帳など)。人馬賃銭は、宝暦末頃の「中国行程記」(山口県萩市郷土博物館蔵)によれば、川辺宿まで本馬一二六文・軽尻一一二文・人足八四文、七日市宿までは本馬一二六文・半馬一一九文・軽尻一一二文・人足八四文。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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