矢玉浦(読み)やだまうら

日本歴史地名大系 「矢玉浦」の解説

矢玉浦
やだまうら

[現在地名]豊北町大字矢玉

西と南はひびき灘に面し、背後山間を縫って矢玉川が流下し、その河口のデルタ地帯に浦がある。萩藩領の神田上かんだかみ村に周りを囲まれた小村。浦の前面暖流に洗われ、夏季の南西風は真正面に受けるが、冬季の北西風は背後の山にさえぎられて比較的に平穏である。長府藩領で豊浦郡田耕筋に属す。

「地下上申」では往古大物ノ浦おおもののうらと称し、大内氏の時代には内藤氏の支配下で、のちに大内氏の残党が住みついたという。慶長五年(一六〇〇)検地帳では神田郷に属し、元和年中(一六一五―二四)には地方浦方とも萩藩領、寛永二年(一六二五)には地方は萩藩士飯田平右衛門の給領であったが、のち長府藩領になった。寛永三年の熊野帳では戸数七二軒の村浦が、元文元年(一七三六)には地方八軒、浦方一二五軒になり(地下上申)幕末には二八二軒と増えていった(豊浦藩明細書)。「地下上申」の浦内地名に関する記述のなかに「恋路浜と申は、往古矢玉を大物之浦と申候時分、此所に色里有之、九州之者傾城買論にて、右恋路にて及刃傷に申之由、其故か恋路浜と申習候由申伝候」とあり、浦の最盛期には遊里のあったことを記す。

「地下上申」添付絵図によると、矢玉川から東側が矢玉浦で、現江向えむかい地区は新浦とある。また舟着場は河口であったが、「此瀬戸潮満ならでは小船ニも出入不相成、陸浦に相成候」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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