生鮮魚貝類を中心とする水産物の取引を専門に行う場所、または施設をいう。小売行為を行う市場(マーケット)をさす場合もあるが、一般には卸売行為を行う市場をさす。うおしじょう、魚河岸(うおがし)、五十集(いさば)、魚市(さかないち)、などともいう。卸売業者(荷受、問屋(といや/とんや)とも)、仲卸業者(仲買人)、小売業者などで構成される点では青果物(せいかぶつ)市場(青物(あおもの)市場)と異ならないが、魚市場は一般に産地漁港に産地卸売市場(産地市場)が、都市消費地に消費地卸売市場(消費地市場)が、2段階でそれぞれ開設される特徴をもつ点が青果物流通の場合と異なる。たとえば釧路(くしろ)(北海道)、八戸(はちのへ)(青森県)、銚子(ちょうし)(千葉県)、三崎(みさき)(神奈川県)、焼津(やいづ)(静岡県)、境港(さかいみなと)(鳥取県)などは産地市場であり、東京都江東区豊洲(とよす)や大阪市福島区野田などの大都市中央卸売市場は消費地市場である。
卸売市場法(昭和46年法律第35号)の所管である農林水産省によれば、水産物を取り扱う卸売市場は、大都市に位置する「中央卸売市場」では全国29都市に34市場(2021年4月現在)、また売場面積が一定規模以上の「地方卸売市場」では全国に消費地・産地合計で552市場(2019年度末現在)が各々開設されている。なお、漁獲物の直接の水揚げや陸送搬入を受け入れている卸売市場に限定した調査によれば(狭義の魚市場)、全国に803の魚市場が存在し、その内の76%が漁業協同組合(漁協)等の生産者団体が開設したものであるという魚市場のユニークな実態が浮かびあがる(2018年漁業センサス)。
[廣吉勝治・工藤貴史 2022年7月21日]
日本の魚市場は商品経済の発展に伴ってしだいにその姿を整えてきた。産地漁港では魚市場が近代的な卸売市場機構として形成されるのに二様のコースがあった。
一つは、仕込みや買いたたきなどによる前近代的な漁民支配を特徴とする魚問屋・仕込商人の買占めの段階から、漁労技術や流通条件の発達に促された漁業生産の発展と近代的な漁港施設整備のなかで魚市場の原型となる問屋集合市場が形成される場合である。漁獲量の増加とその特定漁港への水揚げ増加および集中に伴う加工処理・保管・出荷等の条件整備を通じて生産者の経済力は強められ、産地商人の機能の専門分化(集荷、分荷、仲買、出荷、加工等)の方向を伴った競争的取引が不可避となったからである。漁業生産への投資展開に向かう商人も少なくなかった。同時に、前近代的、特権的性格も変化しつつ、仕込商人の近代的な卸売商人への転化が徐々に進行した。日本では明治末期から大正期を経て昭和初期に到る漁船漁業の動力化ならびに沖合・遠洋漁業の揺籃(ようらん)期において長崎、下関(しものせき)、三崎、八戸、気仙沼(けせんぬま)等の有力産地では問屋集合市場の先駆的形成がみられ、その卸売市場への移行の背景となった。
もう一つは、漁業組合などの漁業者集団が自らの共同販売運動(共販)を発展させながら、買占め魚問屋との対立、抗争を通じて産地卸売市場を獲得していくものであった。漁村各地の組合共販所は、主として大正年間から昭和戦前期における産業組合運動や漁村の経済更生運動および漁業組合の協同組合化政策、さらには漁港施設等の公共的整備の進捗(しんちょく)を背景として形成され、産地魚市場の原型となった。
他方、大都市消費地では、すでに17世紀江戸時代初期において問屋制集合市場の形成、発達がみられた。江戸・日本橋市場は御用商人による幕府への納魚とその納め残りの庶民への販売の拡大によって問屋市場として発展したものといわれ、大坂・雑喉場(ざこば)市場も免許鑑札を受けた特権商人たちの集合市場として、都市の拡大に沿って発達したものである。また、京都の魚市場も三つの魚屋(うおや)町の魚市場において特権的な生鮮魚貝取引が許可され、問屋市場も株仲間制度のなかで発展した。このような特権的、ギルド的問屋市場は明治期以降でも基本的に引き継がれ、市場条件の整備進捗のなかで庶民の台所を支えてきたが、米騒動(1918)や関東大震災(1923)などに象徴される社会不安、食糧不安を背景に、ついに1923年(大正12)中央卸売市場法の制定によって近代的卸売市場機構、近代的卸売商人として、政府の統轄のもとに置かれることとなった。昭和戦前期、同法に基づいて再編された中央卸売市場水産物部の業務開始は、1927年(昭和2)の京都を初めとして、高知(1930)、横浜(1931)、大阪(1931)、神戸(1932)、東京(1935)、鹿児島(1935)、佐世保(1936)の8都市でみられたが、戦後になって各都市で魚貝類の大量供給を図る施設として卸売市場水産物部の開設が進行した。同法は魚市場の普及や市場業者の近代化を図るうえで積極的役割を果たした。
[廣吉勝治・工藤貴史 2022年7月21日]
魚市場は戦後の生鮮食料品流通の発展、とりわけ日本の高度経済成長の過程、とくに1960年代以降における流通・消費の変化のなかで大きく発展した。まず消費地市場についてみると、都市の中央卸売市場水産物部の開設は戦前は全国に8都市・9市場にとどまったが、戦後は消費経済の成長、都市人口の増加、道路や輸送手段の発達および物流技術の向上のなかで相次いで開設された。すなわち、昭和20年代に4市場、30年代に14市場、40年代に15市場、50年代に10市場が開設され、全体を通してみると1985年(昭和60)には累計で全国46都市・53市場で農林水産省認可に基づく中央卸売市場水産物部の開設がみられた。もちろん、都市の魚市場はこのほかに都道府県認可に基づく地方卸売市場の整備もなされた(1970年代には全国に300市場以上の開設をみた)。中央卸売市場のなかで「築地(つきじ)市場」はその規模、内容において大きく成長を遂げ、大都市・東京の魚市場「TSUKIJI」として世界に知られる存在となった。こうした消費地市場発展の背景には国民所得の増加や都市経済の膨張という状況もあるが、自動車輸送網の整備、冷凍・加工・保蔵等の物流技術の向上と相まって、末端流通におけるスーパーや外食産業の成長によって大量流通・大量消費が促進されたことが大きい。
一方、産地卸売市場(漁港魚市場)も大いに発展した。戦後復興を遂げた漁業生産は漁船の大型化と重装備化、漁場の遠洋化と外延的拡大および小型漁船の動力化、ならびに魚類(給餌(きゅうじ))養殖等の新たな技術を背景とした浅海養殖業の発展等により飛躍的に拡大したからである(1950年代に400万トン台であった年間漁獲量は1965年には600万トン、1970年には800万トンをそれぞれ凌駕(りょうが)し、1980年代には1000万トンの大台にのせた)。水揚げの増大に伴い漁港機能や冷凍冷蔵施設、加工団地等水揚げ処理機能の整備が進捗し、漁協等が運営する産地市場施設の整備・拡充が図られた。1980年ごろ、魚市場機能を有する漁港施設は全国に約900市場存在した。なかでも、年間100万トンに及ぶ驚異的な水揚げ処理能力を有する大規模漁港市場が数多く整備されたことは特筆すべきである(たとえば、釧路では1983~1988年まで年間100万トン以上の水揚げが続き、銚子および八戸では1988年に各82万トン、境港では1993年(平成5)に69万トンとなり、それぞれ水揚げのピークを形成した)。
行政にとって、こうした消費地、産地の魚市場を中軸とした水産物流通機構の整備は、高度経済成長期における重要な食料品流通・消費施策と認識された。旧来の中央卸売市場法は、大量流通・消費の動向に対応する合理化の方向を目ざすべく、1971年大幅改正され卸売市場法となった。また、産地においては、漁港整備を中心とした水産行政が魚市場整備を後押しした。
[廣吉勝治・工藤貴史 2022年7月21日]
卸売市場機構を中心とした流通施策が魚市場の発展を促してきたが、この形は流通・消費経済の変化を背景として1980年代後半以降変容が避けられなくなった。
その内容は、第一に、1970年代以降に勃発(ぼっぱつ)した「200海里問題」や「石油ショック」を契機として国内漁業生産が急速な縮減傾向を強めたことである。第三次国連海洋法会議の開催(1973)を契機として、世界的に資源ナショナリズムと海洋分割を特徴とするいわゆる「200海里体制」への移行が決定的な状況となり、多くの沿岸国・途上国の追い上げと日本漁業の遠洋・公海漁業からの撤退が鮮明となりつつあった。あわせて、日本の近海資源であるマイワシの漁獲が急速に減少することとなり(1988年、480万トンあったマイワシは10年後にはその10分の1も獲れなくなった)、日本の海面漁業養殖業生産は国連海洋法条約が採択される1994年には800万トンを割り込み、2000年(平成12)には625万トンとなった。こうした生産量の下降傾向は海洋環境の変動も手伝ってその後も続き、2000年台前半に500万トン台となり、2011年以降は400万トン台で推移している。
第二に、国内漁業の減産傾向とも相まって輸入による水産物供給が主流となったことである。水産物輸入の増加傾向は高度経済成長期の特徴であったが、日本は1980年にはアメリカをしのぎ水産物輸入額世界一の輸入大国となった。農林水産省「食料需給表」によれば水産物輸入量は1980年に170万トン(原魚ベース)であったが、1990年に380万トン、2000年に590万トンと伸長した。2000年の時点で魚貝類の国内消費仕向量の54%を輸入に依存したことになる。このような輸入依存傾向はその後も基本的に変わっていない(2020年時点で57%)。
第三に、水産物の取扱いや流通形態が、物流技術革新や需給情報化の技術展開によって著しい変化を遂げたことである。季節性や地域性のある生鮮品中心の流通形態は冷凍・加工品中心の定番型水産物にとってかわられるようになり、また輸入品や養殖物、活魚、チルドといったある程度流通調整可能な規格・定型・定価品的な水産物が大半を占めるようになり、消費地末端流通も量販店や外食・中食主導へと変化しつつある。
以上のような動向を背景として、従来の卸売市場を中心とした水産物流通は後退し、商社や大手水産会社、場外問屋等が直接、間接に担う市場外流通が台頭するようになった。卸売市場の取扱実績の低下は著しく、農林水産省推定で1998年に約580万トンあった水産物の卸売市場経由量は、2008年に約410万トン、2018年に約260万トンと推移し、1998年に70%あった市場経由率も2018年には47%と低下している(ただし、水産物については産地市場経由分は除かれた推定値)。冷凍マグロ・エビ・サケ・イカ、養殖魚、輸入魚のような国内消費仕向けの大きい水産物の多くは、卸売市場以外の商社や専門問屋がおもに担うようになった。スーパーのような組織型小売業や外食チェーンが末端流通の主流となったことも、この傾向を助長した。こうした変化は卸売市場流通とりわけ都市の中央卸売市場等の取扱いにも影響を及ぼし、平均的な動向であるが、生鮮品の取扱割合は全体の3割程度(7割は冷凍・加工品等)、集荷方法は委託集荷中心から買付集荷中心へ、販売方法は原則的なせり・入札等から相対(あいたい)販売中心へとそれぞれ変化を迫られた。流通の太いパイプとしての地位が大きく揺らぎ始めている状況のなかで、国の卸売市場行政においても、取引規制の緩和・自由化や市場整備方針の見直し等を含めた制度の抜本改定が指向された。とくに卸売市場法の2004年改正を経て2018年の法改正(2020年6月施行)は、買付集荷の自由化、第三者販売・直荷引(じかにび)き(卸売業者の市場内業者以外との取引や仲卸業者の卸売業者を経由しない直接集荷等)の原則禁止の廃止、いわゆる商物一致(市場内に品物を持ち込んで取引)の原則の廃止、民間業者でも中央卸売市場の開設が可能となるなど、魚市場にとっても重要な制度改定であった。一方、卸売市場運営や市場業者の実情は、「バブル経済」崩壊の影響もあって経営的に苦況にたつものが多く現れ、中央卸売市場の場合はその統廃合や地方卸売市場化への縮小再編、市場業者の場合は休・廃業、あるいは合併等に取り組むケースも続出した。
現在、魚市場は食料流通全体の動向のなかで再編途上にあるが、生鮮食品の安定的確保や品揃(ぞろ)えの充実、安心安全の確保、消費者や生産者が求める適切な情報発信、産地市場にあっては漁業者の販路確保等の重要な課題に取り組む役割を担う公的インフラとして国民的期待があることも事実であり、今後の動向が注目される。
[廣吉勝治・工藤貴史 2022年7月21日]
水産物の取引を集中的に行う場所,または施設のことをいう。一般には,小売ではなく卸売の取引を行う魚市場を指している。うおしじょう,さかないち,魚河岸,五十集(いさば)などとも呼ばれる。水産物はこの魚市場を基軸に流通しているが,漁獲物の水揚げを行う漁港には産地市場が,都市消費地には消費地市場がそれぞれ独自の流通機能をもって段階的に分立していることが,他の生鮮食料品流通と異なる特徴である。
日本の水産物流通は,流通機構の未発達のもとで,長い間前近代的問屋商人に依存する時代がつづいた(〈魚問屋〉の項参照)。しかし,明治末から大正期にかけて,漁船漁業の動力化を契機とした漁業生産の発達,都市人口の増加と交通・通信条件の整備,漁港施設や荷さばき施設の改善などが進み,産地漁港では,水産物の流通は問屋商人の集合化による問屋市場や問屋商人との抗争にうち勝った漁業者団体による共同販売所で行われ,しだいに近代的な卸売市場としての形が整えられた。一方,都市消費地市場では,江戸時代から問屋御用を務める一部商人の特権的・ギルド的問屋集合市場は明治期になっても基本的に存続したが,1923年の中央卸売市場法の制定によって国の統轄のもとにおかれ,近代的卸売商人,卸売市場として再出発することとなった。
日本には全国各地に大小種々の漁港が分布し,さまざまな漁獲物が水揚げされているが,産地市場には,これら漁獲物の出荷,加工,貯蔵などの利用配分を迅速に行うとともに,一次的な価格形成を行って漁業生産を継続させる機能がある。生産者の漁獲物の委託をうける産地市場の卸売人は,かつての問屋商人の系譜をひく卸売会社である場合もあるが,一般的には漁業者の共同販売所の系譜をひく生産者団体(漁業協同組合など)である場合が多い。また産地仲卸人(仲買人)は,漁獲物をそのまま即日消費地に販売する出荷業者をはじめ,冷蔵業者,加工業者,小売業者など多様である。他方,都市消費地市場においては,産地から出荷されてきた生鮮品をはじめ各種の加工品や冷凍品を小売店,外食店,料理店,加工業者,給食施設など多種多様な需要者に売りつなぐため,大量の集荷と豊富な品ぞろえが要求される。そのため消費地市場卸売人の経済力・企業規模は概して大きい。
こうした卸売市場機構を中心とする水産物流通は,旧法の大幅改正を意図した卸売市場法の制定(1971)によってさらに一層の発展が図られつつあるが,他方,60年代以降の経済発展のなかで,従来のような生産者→産地市場→消費地市場→小売業者→消費者といった卸売市場中心の単線的な流通が崩され,大きく変化していく側面があることも見逃せない。すなわち,卸売市場流通にまったく依存しない新しい流通経路の形成を含む多岐的・多元的な水産物流通が展開しつつあり,しかもその流通の担い手としては大手の商社や水産会社あるいは場外問屋や他産業資本などが新規に介入する場面がみられる。こうした構造変化は,第1に,漁場の著しい遠隔化と漁業生産の大型化により生産資本の大型化や水揚げ・出荷の大量化が図られたこと,第2に,冷凍・加工技術の発達・普及により取扱い水産物の中心が生鮮品から保管と出荷調整の可能な冷凍・加工品へと移行し,取扱いが簡便で流通範囲もより広い規格・定型品が台頭したこと,第3に,都市人口の急増と都市的生活様式の普及によりスーパーマーケットなどの量販店や各種の外食店などが増加し,規格・定型品の大量消費が可能になったこと,第4に,水産物輸入が大幅に増加したこと,などを要因としている。
こうして今日,消費地の流通段階においては,生鮮魚介類の比重が低下して,冷凍・加工品が水産物取扱量の60~70%を占め,水産物輸入額は国内漁業生産額の約30%も占め,あるいは買占め,売惜しみなどが社会問題化しやすい環境がつくられるなどの変化が起こっている。とくにマグロ,エビ,サケ・マス,イカ,タコ,および魚卵をはじめとする輸入品などの,比較的高価格で全国的流通域をもつ主要水産物の流通は,生産者・出荷者から直接小売業者や大口需要者に販売されたり,産地市場を通さず消費地市場に販売される場合などが一般化しており,卸売市場流通の地位はこの面で大きく揺らいでいる。
このような近年の水産物の流通構造変化と市場外流通の展開への対応・対抗として卸売市場自体の構造も大きく変化している。たとえば,委託から買付けへ,せり・入札から相対(あいたい)売買へといった形で,従来の原則的な集荷方法や取引方法が崩壊しつつあるのが実態である。
→魚市 →卸売市場 →水産物市場
執筆者:廣吉 勝治
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…市場は専門的卸売商人である問丸によって運営され,その品物は洛中の六角魚市や塩屋,また西岡付近の塩座に卸された。六角町の魚市では1333年(元弘3)ころ供御人(くごにん)10余人が魚商を営んでおり(《内蔵寮領目録》),1467‐80年(応仁1‐文明12)ころには上京今町にも鮮魚市場が営まれていた。このほか祇園祭の期間中今宮神人(じにん)がハマグリや鮮魚の販売を許可されたり,近江粟津の魚座(粟津橋本供御人)も淡水魚の販売を行うなど,魚介類の販売は座をめぐって紛争が絶えなかった。…
…水産物の取引を集中的に行う場所,または施設のことをいう。一般には,小売ではなく卸売の取引を行う魚市場を指している。うおしじょう,さかないち,魚河岸,五十集(いさば)などともよばれる。…
…雑喉とは種々入りまじった小魚のことで,それを売買する所を雑喉場といい,大坂魚市場の固有名詞となった。1495年(明応4)ころ,蓮如の石山本願寺建立のときできたという。…
…その結果,水産物市場においても,つぎのような内容変化が生じている。 まず,水産物の魚市場取引形態が変化してきている。冷凍水産物の市場取扱量が大幅に増加したため,魚市場の中心的機能である評価(値付け)機能を発揮する余地がせばめられた。…
※「魚市場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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