神田上村(読み)かんだかみむら

日本歴史地名大系 「神田上村」の解説

神田上村
かんだかみむら

[現在地名]豊北町大字神田上

矢玉やだま浦を囲む山地を村域とし、北は神田下かんだしも、東は滝部たきべ、南は宇賀うかの各村に接し、西方一帯はひびき灘に面する。萩藩領で先大津宰判に属した。

和名抄」に「神田郷」とあり、中世には神田別府とよばれた。貞治三年(一三六四)八月付の長門国法華寺免田坪付注文(「寺社証文」所収長門国分寺文書)に「神田別符島戸方」とみえるのをはじめ、至徳三年(一三八六)大内義弘は神田別府内饗庭太郎左衛門入道ならびに宇野弥五郎跡地を内田肥前入道の知行地とした(「永田秘録」内田家文書)

<資料は省略されています>

また寛正二年(一四六一)大内家壁書には「神田」とある。大内氏時代の末期には長門守護代内藤興盛・隆春の所領であった。

慶長一五年(一六一〇)検地帳では神田郷として出るが、これには付近の神田下村・矢玉浦・島戸しまど浦なども含まれていたと考えられ、総石高三千五一〇石余、うち田方が二三二町余で二千六六四石余、畠方が八二町余で三五〇石余、百姓屋敷二九〇、浦屋敷二一七、浦浮役二八一石余、塩浜方五斗、小物成二三石余とある。その後元禄一二年(一六九九)の郷帳で神田村、「地下上申」で上中下三村と島戸浦などに分けられたが、「注進案」では神田上・神田下の二村となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報