日本歴史地名大系 「神田上村」の解説
神田上村
かんだかみむら
「和名抄」に「神田郷」とあり、中世には神田別府とよばれた。貞治三年(一三六四)八月付の長門国法華寺免田坪付注文(「寺社証文」所収長門国分寺文書)に「神田別符島戸方」とみえるのをはじめ、至徳三年(一三八六)大内義弘は神田別府内饗庭太郎左衛門入道ならびに宇野弥五郎跡地を内田肥前入道の知行地とした(「永田秘録」内田家文書)。
また寛正二年(一四六一)の大内家壁書には「神田」とある。大内氏時代の末期には長門守護代内藤興盛・隆春の所領であった。
慶長一五年(一六一〇)の検地帳では神田郷として出るが、これには付近の神田下村・矢玉浦・
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報