石森村(読み)いしのもりむら

日本歴史地名大系 「石森村」の解説

石森村
いしのもりむら

[現在地名]中田町石森

西になつ川が南流する低平地にあり、南は加賀野かがの村、東は桜場さくらば村・上沼うわぬま村に接し、西の夏川対岸は栗原郡石越いしこし(現石越町)、北は磐井いわい西永井にしながい(現岩手県西磐井郡花泉町)に続く。文正元年(一四六六)に生れ、大永元年(一五二一)に没した熊谷朝明は、葛西家の軍奉行を兼ね、「登米郡 石森邑主」であったという(熊谷支族伝)。村名の由来は鎮守石之明神に神体の石があることによるという(安永風土記)正保郷帳に石森宿と記され、田一二五貫一四四文・畑二三貫二三七文とあり、ほかに同所新田三〇貫二一三文があり、水損と注記される。

「安永風土記」によれば、田二八五貫三八四文・畑三一貫八七文で(都合六〇〇文不足)、蔵地は七九貫二五一文、給所は二三七貫八二〇文、人頭二五三人、家数二五三、男女都合一千四〇三、馬一九三とあり、合好舟一三艘はいずれも草飼作場通用船であった。


石森村
いしもりむら

[現在地名]船引町石森

つくもだ村の北、阿武隈高地中の丘陵地帯に立地。中央を東西に三春みはる(現三春町)から相馬へ至る相馬道が通り、集落は道沿いと東部丘陵に点在。中世は田村庄のうち。永禄一一年(一五六八)七月吉日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)に「一町 七百文 石の森」とみえ、天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(同文書)にも同様の記載があり、紀州熊野新宮に年貢を納めている。

文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に村名がみえ、高八三四石余、蒲生将監の知行地


石森村
いしもりむら

[現在地名]古川市石森

現古川市の南東端にあり、江合えあい川と鳴瀬なるせ川に挟まれ、北と東は遠田とおだ桑針くわばり村、南は下中目しもなかのめ村に接する。正保郷帳に田四四貫一〇文・畑五貫九五五文とあり、ほかに同所新田四〇貫九一二文がある。「安永風土記」によれば、田八六貫五五四文・畑五貫八九二文(うち茶畑二八文)で、蔵入は一貫五四二文、給所は九〇貫九〇四文、人頭三三人(うち沽却禿三)、家数四四(うち名子九・水呑一・借屋四)、男一〇七・女八七、馬一三とあり、多貝たがい沼や松任まつとう江の名もみられ、これらを通して新田開発が進んだとみられる。


石森村
いしもりむら

[現在地名]可児市石森

平貝戸ひらがいと村の西、可児川南岸にある。明知あけち八郷の一。明暦覚書に村名がみえ、尾張藩領と幕府領の二給で、尾張藩領分の高三九石余・概高五四石余、人数九、馬一。「濃陽志略」では家数一・人数七。「濃州徇行記」では田二町八反余・畑三畝余、伏見ふしみ(現可児郡御嵩町)預分一五石余は田一町余。家数一・人数一〇、馬一。百姓は新蔵一軒のみで高はすべて同人持という。幕府領分は初め平岡頼勝(徳野藩)領で、承応二年(一六五三)上知された。文化一二年(一八一五)の村明細帳によれば高一八六石余、田一一町九反余・畑一町余。家数一二(高持一〇・水呑二)・人数四七、馬二。平貝村戸と立会いの用水井堰一ヵ所がある。御嵩みたけ宿(現御嵩町)への助郷高二二五石(元禄七年「御嶽町助郷帳」野呂文書)


石森村
いしもりむら

[現在地名]福井市石盛いしもり

北陸街道に沿い、上森田かみもりた村の北に位置する。古くは石丸いしまるとよばれた地で、その名は新田義貞の居城石丸城としてすでに「太平記」にみえるが、「福井県史」によると長禄三年(一四五九)には綸旨をもって河合庄内石丸名の名主職を正住院に領せしめたという。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「川合上之郷」に含まれ、村名は正保郷帳にみえ、田方六四一石余・畠方四一石余。元禄郷帳以降は石森村として出るが、当地の前田安信家に蔵される寛文五年(一六六五)の室職免許状や「越前地理指南」には石盛村とある。福井藩領で、文政六年(一八二三)の給人地方渡名寄帳によれば、稲葉采女ほか三名の相給知行地。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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