デジタル大辞泉
「石田幽汀」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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石田幽汀 いしだ-ゆうてい
1721-1786 江戸時代中期の画家。
享保(きょうほう)6年生まれ。京都の石田半右衛門の養子となり,鶴沢探鯨(つるざわ-たんげい)にまなぶ。写実味のある装飾的画風が特徴。宮中の絵師として法眼(ほうげん)にのぼる。門下に円山応挙,田中訥言(とつげん),原在中らがいる。天明6年5月25日死去。66歳。播磨(はりま)(兵庫県)出身。本姓は橘。名は守直(もりなお)。作品に襖(ふすま)絵「葵祭(あおいまつり)図」,屏風(びょうぶ)絵「花卉(かき)図」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内の石田幽汀の言及
【田中訥言】より
…[復古大和絵派]の祖と呼ばれる。初め応挙の師として知られる石田幽汀(1721‐86)に学び,後に土佐光貞(1738‐1806)に師事して法橋(ほつきよう)に叙せられた。また1790年(寛政2)新内裏造営,障壁画制作に携っている。…
【円山応挙】より
…丹波国穴太(あのう)村(現,京都府亀岡市)の農家に生まれる。15歳のころ京都へ出て,鶴沢派の画家石田幽汀(1721‐86)に画技を学ぶ。生活のため眼鏡絵の制作に従事し,中国版眼鏡絵を模写,応用して京名所を描いた。…
※「石田幽汀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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