日本歴史地名大系 「砂川尻新地」の解説 砂川尻新地すながわじりしんち 熊本県:八代郡竜北町砂川尻新地八代郡と下益城(しもましき)郡の境界を流れる砂川は、下益城郡小川(おがわ)町蕨野(わらびの)、大野の米(おおののこめ)山などに源をもち、不知火(しらぬひ)海に注ぐ。河口は中世以来、小河江、のち砂川津口とよばれ、近世末期には河口の後退によって住吉(すみよし)津口といわれ、この川を利用して船舶の往来が多く、肥後の各地をはじめ、肥前国口(くち)ノ津(つ)(現長崎県南高来郡)、長崎・長門(ながと)などと交易を行っていた。砂川は「国誌」に「白砂ノ小川也」とあるように、洪水時には花崗岩の風化した莫大な土砂を川下に押流し、その結果河床は年々高くなり、河口周辺には広大なデルタを形成して新地築造を容易ならしめた。砂川流域の開拓・干拓の歴史は古く、すでに慶長一三年(一六〇八)に新田(しんでん)村六七町歩が成立し、寛文六年(一六六六)以降に住吉鹿島(かしま)開九二町九反八畝余、鹿島開一〇一町四反六畝余、明和三年(一七六六)に三軒屋(さんげんや)開二八三町七反余、文化一三年(一八一六)に河江(かわえ)手永開七〇町余などが漸次築造された。砂川尻新地は嘉永五年(一八五二)に下益城郡河江・八代郡野津・種山三手永の催合砂川尻新地として築造されたもので、同年二月一八日に竜神祭を執行し、九月二四日に潮留を行ったが、藩主細川斉護はこの工事を見分した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報